『ヘルモンにおく露のように』
2024年12月1日
今日から12月、アドベント(待降節)に入りました。アドベントには「到来」という意味があって救い主の到来を待ち望む4週間なのです。私たちは楽しいクリスマスを待つとともに、主が再び来られてこの深い暗闇を照らす光となってくださることを期待します。
さて、今日もルカによる福音書のなかからペテロの信仰告白についてお話しさせていただきます。
この話はマタイ、マルコの福音書によるとフィリポ・カイサリア地方、そしてさらに北にある恐らくヘルモン山での出来事だったとされています。
フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北に位置しカファルナウムから50kmほどのところにありました。現在はバニアス自然保護区となっておりヘルモン山からの雪解け水で豊かに潤う公園となっています。その一角にヘロデ大王がローマ皇帝からこの地を与えられたため皇帝のために建てたと言われる神殿跡があります。ヘロデ大王の息子のヘロデ・フィリポはこの地域を統治するにあたって皇帝に敬意を表して皇帝(カイザル)のためフィリポが建てたと称してフィリポ・カイサリアと名が付きました。
ヘルモン山(表題の写真):
Almog - 投稿者自身による著作物, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2181987
ルカによる福音書によると先週のパンの奇跡(ルカ9:10~17)を体験した人々はキリストに着いて来ていたようで、彼らはキリストが何者なのかということについて噂し、バプテスマのヨハネやエリヤ、または昔の偉大な預言者だと考えていたようです。
そこでキリストは弟子たちに対して「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞いたところ、珍しくペテロが「神からのメシアです」と真っ当な答えをしました。(ルカ9:18~22)
それからキリストはペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて高い山に登られました。
■ルカ9:20~36
この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
山は古代イスラエル領土の最北端にあたるヘルモン山(2,814m)だったと考えられています。ここにモーセやエリヤが現れたというのです。なかなか凄い話だと思いますが何のために?という疑問が残ります。
皆さんはこのところをどう考えるでしょうか。
【まとめ】
ヘルモン山は詩編のなかのダビデの詩にも出てきます。
■詩編133:1~3
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り衣の襟に垂れるアロンのひげに滴りヘルモンにおく露のようにシオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された祝福と、とこしえの命を。
神の選びの香油がアロンの頭に注がれて流れ、髭を伝って襟にまで達するのを、ヘルモン山に降った雪が解けてヨルダン川を降りガリラヤ湖に注ぎ、遠くエルサレムの山々をも潤すということを詩にしており。水を得るということに関してヘルモン山がイスラエルの環境に如何に重要な役割を持っているかということを示しています。
そして、それは霊的にも重要だということがこの山での話のところからわかります。
フィリポ・カイサリアにはローマ皇帝を神格化して建てられた神殿があることを説明しましたが、ヘロデ大王は他にもギリシャのゼウスやパンという神に対しても神殿を建てていて、偶像の神々が祀られる地域でもありました。そこへキリストは弟子たちを連れて行き「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞いたのです。
さらにその後、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れてヘルモン山に昇った時にモーセとエリヤがキリストの元に現れるのですが、咄嗟にペテロはキリストがモーセやエリヤに並ぶ偉大な存在であることに感動して3つの宮を建てましょうと進言します。このモーセとエリヤは彼らの霊ではなく、ペテロたちに見せられた幻に過ぎませんでした。ここで彼らはもう一度、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と試されたのです。
先には「神からのメシアです」と言っておきながら、ペテロは何が起きているのか自分が何を言っているのか何も理解できていなかったのです。
輝く姿のキリストとモーセとエリヤを神が雲で覆った時、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と声があり、雲が消えるとキリストだけがそこに立たれていました。
これはキリストだけが神の子でありメシアとして選ばれているということをあらためて示されたのだと思います。
そして、この体験は彼らのうちに失敗のなかの学びとして強烈なインパクトを残した筈です。
また、この話でキリストがモーセ、エリヤと「最期について話していた」というところの「最後の死」はギリシャ語のエクソドン(ἔξοδον)という言葉が使われていて出エジプトのエクソダス(ἔξοδος)とほぼ同じように使われ、「出口」や「出ていく道」などの意味を持ちます。
ですから、この部分は出エジプトの時代にモーセがシナイ山で神と契約の証を立てた時にモーセの顔が光り輝いたという話と重ねられる部分なのかもしれません。キリストの「最後の死」は本当の意味での「罪からの脱出」であり、歴史のはじめから計画された救いであることをも示しているのです。
■エゼキエル34:25~27
わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。
キリストが何故、ペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを試されたのかは不明ですが、ヨハネの兄弟であるヤコブは12弟子のなかで最初に殉教します。彼らにはこの時に十字架の死によって罪からの贖いが完全に成し遂げられることをはっきりと教える必要に迫られていたのかもしれません。