『わたし自ら群れを探しだす』
2024年11月17日
今日もルカによる福音書から弟子たちを丸腰で福音伝道に派遣する話をさせていただきます。
この話を考えていた時に私がこのTICAにやってきた時のことを思いました。2005年くらいではなかったかと思いますが、少し前からTICAの当時、宣教師だったスワン師から手伝ってほしいと言われていました。私と妻は何がという訳ではないのですがTICAに来なければならないような気がしたのです。
でも、妻はともかく私は英語も話すことができません。いったい自分になにができるのだろうと思いながら通いはじめ、何もできないままその疑問は数年、続いていました。
■ルカ9:1~9
イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。
この部分に関してはマタイによる福音書の方にもう少し詳しく書かれていますので、そちらを読むと派遣先はイスラエルの失われた羊限定で異邦人のところへは行くなと言っています。(マタイ10:5)そして、サマリアの街にも行くなといっていますので派遣はガリラヤからエルサレムがあるユダヤ地方に対して行われたことがわかり、「天の国は近づいた」と12弟子に宣べ伝えさせました。
それにしてもキリストが12弟子を福音伝道のため派遣する際に何も持っていってはいけないと無茶なことを言っています。杖と袋、パンはいいとして金さえ持たないというのは、最初から人にたかりに行くつもりなのかと思ってしまいます。さらに、下着はいくらなんでもいるでしょ―と思ってしまいます。旅人として人のうちに泊めてもらって、下着も持ってないなどと言ったら「アンタ、旅を何だと思ってるの?」とさすがに呆れられてしまうのではないかと思ってしまいます。
どうして、ガリラヤでは異邦人にも福音を伝えていたのに急に方針転換したのでしょうか。それに派遣もいくら神の助けがあるとはいえ、無茶なようなきがします。ヘロデの反応も何か意味があるのでしょうか。
皆さんはこの箇所をどう考えるでしょうか。
【まとめ】
何かと悪者にされがちなユダヤ人の人たちなのですが、ユダヤ人には神を中心とした相互の助け合いが行き届いている面があります。キブツという集団コミュニティのことを聞いたことがある人もいると思います。パレスチナの紛争でもギブツ出てくるので良いイメージがないかもしれませんが、「生産的自力労働」、「集団責任」、「身分の平等」、「機会均等」という原則を持って農地開拓を共同で行うコミュニティとして生まれました。今はテロなどの問題があるため外部の人がコミュニティに参加するには登録が必要のようですが、以前の平和な時はいろんな国からバックパッカーが訪れて、労働しながら無料の食事と宿を提供してもらっていたりしました。もしかすると共産主義の理想とする形がここにあるのかもしれません。
■ヘブライ13:1~2
兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
ヘブライ人への手紙の著者は律法のうちにあって旅人をもてなすことが大事だと語っています。マタイによる福音書ではタラントの話の流れのなかで裁きの時、忠実に神に仕えた者に「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた」と褒められる話をキリストがしています。(マタイ25:31~46)
愛を持って旅人をもてなすことは律法においても重要な義務だったのです。
ですから、12弟子を派遣して「天の国は近づいた」と告げ知らせ、悪霊を追い出し病人を癒すことはユダヤ人が本来の律法に立ち返って、悔い改めを促すためでした。
そのため、この派遣は異邦人ではなくイスラエルの家の失われた羊に対してされる必要があったのです。そして、既にバプテスマのヨハネによって、その福音伝道の道は真っ直ぐに整えられていました。
それは、バプテスマのヨハネが死者から生き返ったとヘロデ・アンティパス王に伝わるほど大きな反響になったのです。ヘロデ・アンティパスは愚かな王でしたが、バプテスマのヨハネとキリストを繋げて、当時のユダヤ人支配層にメシアの到来を知らせることに一役買っています。これは重要なことでした。
この箇所で何ももたずに12弟子が派遣されたというのは、弟子たちに神がすべて備えてくださるということを教えているということがひとつあるかもしれませんが、それだけではないような気がします。
ヘブライ人への手紙の著者がある人たちと書いたのはアブラハムのことで天使たちはソドムを滅ぼしにいくところだったのです。アブラハムは天使たちを旅人としてもてなしソドムの人々は逆に危害を加えようとしたのです。(創世記18:1~19:29)
この記事に関してはマタイによる福音書の方がこの派遣の意図を明確に記していて、ソドムとゴモラの滅亡の話としっかりリンクさせています。
12弟子が派遣されたのはこのことが神の計画された救いであり、バプテスマのヨハネがキリストの前に道を備えたように神が完全なコントロールを持って大きな計画を実行されているということを弟子たちが知るためであったのではないかと思います。それは後、ふるいにかけられる弟子たちにとって重要な体験となります。
エゼキエル書34章にはこれらのことについての預言が記されていて、キリストが他のところで語った数々の言葉もこの34章と関連しているように思えます。ここを読むとキリストがいろんな場面で語った言葉ひとつひとつが繋ぎ合わされていくように思えるのではないでしょうか。
■エゼキエル34:1~31
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。 主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。
まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。
それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。
わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。悪い獣をこの土地から断ち、彼らが荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようにする。わたしは、彼らとわたしの丘の周囲に祝福を与え、季節に従って雨を降らせる。それは祝福の雨となる。野の木は実を結び、地は産物を生じ、彼らは自分の土地に安んじていることができる。わたしが彼らの軛の棒を折り、彼らを奴隷にした者の手から救い出すとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。彼らは二度と諸国民の略奪に遭うことなく、この土地の獣も彼らを餌食にしない。彼らは安らかに住み、彼らを恐れさせるものはない。わたしは彼らのためにすぐれた苗床を起こす。この土地には二度と凶作が臨むことはなく、彼らが諸国民に辱められることは二度とない。そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である」と主なる神は言われる。
福音を伝えようと私が考える時、自分の能力や準備に頼ってしまうところが大きいと思います。でも、大切なのは神がどのような計画をもっておられるのかを知ることだと思います。神が大きな手を持って自らの計画を実行されようとする時、必ずそれは成され止め得る者はいないのです。
主、自らが自分の羊を探すため、私たちは派遣され主が事を成すのです。
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