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【続・小学生①】女友だちに嫌われちゃってしんどかった【HSPエピ?】

この記事は続編です!

前編はこちら↓

伝えたい、もう1つの”あっぱれ”

前回は大まかな経緯をお伝えし、自分が「いじわるされている」と母親に相談できたことが我ながらあっぱれ!だったという話をした。

でも、まだあっぱれ!だったことがある。
 
それは、母親や担任の先生が「いじわるされている!」「つらい!」みたいなわたしの主張に真摯に向き合ってくれたことだ。
 
これは、何よりもあっぱれ!で、本当にありがたいことだったと思う。
 
ニュースを見ていると、どうやら”いじめ”を見て見ぬふりをする大人も存在していそうだ。
 
身内である親はもちろん、そのとき真摯に向き合って対応してくれた担任の先生には、心からのありがとうを贈りたい。
 
「そんなことでへこたれるな」「そんなやつ、やり返すんだ」みたいな変な根性論をただただ展開されたら、当時のわたしは潰れていただろう。
 
周りを頼ることはとても大切だ。
でも頼った先の言動に苦しめられたり、良い具合に支えてもらえなかったりしたら、結構な絶望感を覚える気がする。
 
いじわるしてくるソイツが絶対悪いのに、なんで自分を責めなきゃいけないのか。まったく、イライラ案件である。

いじめに遭遇するかどうかは…

自分自身が人であるにも関わらず、“人”をいじめてしまう“人”は、必ずどこかに存在する。

24歳になったいま、そういう悲しい人は案外普通にいるもんだと気づき始めてもいる。
 
いじめは簡単にこの世からなくならない。
自分がいじめに遭遇してしまうかどうかは、
完全に運ゲー
なのだ。

そもそも環境が自分に合っていなかったり、たまたま人の組み合わせが悪かったり。
またもやもとからいじめるのが好きな人がいたりして、いじめが発生したりする。

いじめが起きる要素は不確定なのだと思う。

いじめてくるのは”心の弱い人”

今日もこの社会のどこかでは、心の弱い誰かが誰かをいじめている。
 
いじめの捉え方は人それぞれだが、たとえば人を下げたり嫌味を言ったりして「故意に人を困らせる人」も、根本的に心のどこかが弱くなってしまっているのだと思う。
 
自分に自信がなかったり、余裕がなかったり。
 
そう。みんな、ちょっと、可哀そうなのだ。
 
いま思えば、“ボス”だって、なにか心の弱さを抱えていたんだろう。

2次被害を引き起こすいじめ

また、いじめの一番嫌なところを挙げるとするならば、いじめられた人の心もまた弱くなってしまうこと。
 
自分がいじめられて辛かったのに、過去の自分自身と同じ思いを他の人にさせてしまうような、“連鎖”を起こすこともあるのだ。
 
もちろん連鎖ではなく、「人をいじめるのが楽しい」みたいな生まれつきの残虐性をもった人がいじめを実行するパターンもあるのだろうが・・・
 
大体はそうやって、“心の弱さの連鎖”がいじめを生むんじゃないかなぁと今は考えている。
 
実は「ボス事件」以降のわたしも、「もしかしたらあの時、あの人を苦しませてしまっていたかもしれない」という経験をしてしまったことがある。
 
わたしはこの記事で色々書いているくせに、完全に綺麗な心を持っていないのだ。
 
だからこそいじめは本当にキライだし、もう絶対に“人”を傷つける“人”にはなりたくない。
 
過去の未熟な経験も、誰かのためになることを願って、また書いていきたいと思う。

いじわるしてきたボスのその後

話は逸れるが、わたしをいじわるした後のボスは、ターゲットや手法を変えては人に嫌なことをし続けていたと聞く。
 
たしか小学5,6年生の頃、わたしと仲が良かった友だちが、どうやらボスの“ターゲット”になったらしかった。
(その友だちは違うクラスだったが、登下校を共にしていた)
 
心配するわたしだったが、その友だちはピシャリとわたしにこう言ったのである。
「気にしない、あの子はああいう子だから」と。
 
つえぇ。
その友だちはもはや周りの助けすら必要としていなかった。

「えぇっ、大丈夫・・・?」とわたしは依然心配していたが、その友だちの毅然とした態度に、ボスの味方をするものはいなかったらしい。

小学校卒業後、ボスは通常入学する近隣の中学校には進まず、他の学区の中学校に進学した。

これからの目標

何が言いたいのかというと、これからのわたしは嫌なことをしてくる人たちにひ弱にならず、堂々としていたいということだ。

心のなかで嫌だなぁと思っても、時が止まりそうなくらいあえてゆっくり落ち着いて「ふ~ん」「へぇ~」などと対応するだけ。

エネルギーを使って戦う必要はない。
けど、心の内ではしっかり敵対視である。

「嫌な人にも良いところはある」というところまで考えられたのなら、それはもう”勝ち”かもしれない。

これからの目標②

また、なんだか嫌な気持ちになっていそうな人がいたら、あの時わたしを助けてくれた母親や担任の先生のように、適切に痛みを理解してあげられたり手を差し伸べてあげられたりするような人でありたい。

まだまだ人生経験が足りないんだろうけど・・・

自信や余裕に満ちた“心の強さ”を維持することは難しいが、自分を大切にしたうえで他人も大切にできるよう、自己努力を続けていきたいという思いも根底にある。

自分に合った生き方を選択し、自信や余裕を保ちやすい環境に身を置くのもひとつの方法だと思う。

最後に伝えたいこと

最後に。
 
これまでの人生を振り返って、わたしは大多数の人と比べたら、ちょっと「変わっている」らしいことが分かってきた。
 
だけど、これは強く言いたい。群衆のなかでどんなに「変わっている」人がいても、攻撃したり傷つけたりしていい理由なんてないと思う。
 
完璧な人間などいないのだから、この世のひとりひとりが個性を出し合って、補いあう世の中であってほしいと切に願うのだ。

それぞれ役に立つ個性が必ずあって、それが最大限発揮できていれば良いのかななんて。
 
これまで遠回りもしながら色々な経験をしてきたけれど、いまのわたしには「過去のわたしと同じように他の人が傷ついてしまったらどうしよう」という、恐怖心すら潜んでいる。
 
だけど、過敏なまでにそうやって「人を傷つけたくない」「人の個を損なってほしくない」と思う心は、人の痛みを考えられるわたしの自分らしさなのかもしれない。

わたしを傷つけた人たちに感謝がしたい・・・とはまだ思えないけど、自分らしく個性を輝かせてうま~く生き抜けたときに、過去のそういう人たちに対しても感謝できる日がくるといいな。
 
もっと暴力的で組織的で、えぐり取られた心が戻ってこないような、ひどいいじめを受けている人もいるだろう。
 
でも、いじめられている人は絶対に悪くない。
だから、少なくとも死ぬなんてことは考えずに、少しでも自分の持つ輝きを失わないように勇気を持ってほしいと、強く願い続けたい。

最後まで読んでいただきありがとうございました♪

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