映画評『ソウX(SAW X)』:悪人だって善人に見える
映画『SAW(ソウ)』は、2004年にオーストラリアから現れた鬼才ジェームズ・ワンとリー・ワネルによって制作されたサイコスリラー映画である。
低予算ながら、限られたシチュエーションを活かした巧みな演出と脚本で一世を風靡した本作は、20年経った今でも続編が作られているほどの人気シリーズとなった。
このシリーズの魅力は、連続殺人鬼ジグソウによって仕掛けられるさまざまなデスゲームとそのネタバラシにもあるが、それ以上にこのジグソウを巡るストーリーも愛されてきた。
20年も経っているのでネタバレも何もないと思うが、ジグソウの正体はジョン・クレイマーという病を抱えた男である。彼は、自身が死に直面したことで他人が命や人生を粗末にすることに怒りを覚え、デスゲームを通して命の尊さを学ばせようと考え始めたのである。
2作目以降になると、シリーズの大きな舵はダーレン・リン・バウズマンという新人監督によって取られることになり、その後はシリーズを重ねるごとに、ジグソウを巡る物語はその弟子やら後継者などの揉め事が増えていき、演出はより人体破壊を見せつけるグロテスクなショーの趣向が強くなっていった。
本作『SAW X(ソウX)』は、そんな長きゴタゴタに至る前の第1作と第2作の間の話を描いている。
第1作目は「犯人は誰か?」「何が起こっているのか」というサスペンス要素が強くそこも面白さの肝であったが、本作では観客はすでにジョン・クレイマーが連続殺人鬼ジグソウであると知っている。
そのジョンが命や死に対して何を考え、そこからどう変化していくかを見られるのが本作の大きな特徴だ。
なので、いきなりデスゲームから始まった1作目とは異なり、本作は非常にスローなペースでスタートする。前半の40分は、一部を除けば病に苦しむ男が救済される普通のヒューマンドラマ映画にも見える。
ジョンが病の治療についてインターネットで調べたり、一縷の望みをかけて治療を受けに行く行程もとても丁寧に描かれている。とりわけ、メキシコの空港を出た時の美しいショットと音楽の演出など、実に感動的だ。
しかし、予告編でも明かされているが、本作はジョン・クレイマーが医療詐欺集団に騙され、その怒りから犯行グループを拘束してデスゲームを仕掛ける話である。
そのことを分かった上で見ていると、詐欺を働いている連中の「善人ぶり」が一層引き立って見えてくる。
主犯のセシリア・ペダーソンは、パッと見て、本当に“善い人”だ。
メールを送ってきたジョンに対してすぐに電話で連絡をしているし、残された時間が少ないことを察して治療の繰り上げを提案してくれたりもする。弱っている者にはこの自信のある態度は何よりありがたいことだろう。
治療中も世間話をしてくれたりと親切だし、絶えない笑顔も印象に残る。
その他に、「セシリアに命を救われた」と宣うガブリエラが、験担ぎのテキーラを持ってきてくれたりするのも、実に気が利いている。
しかし、これらは全て詐欺である。
こうして、弱った者に対して偽物の救いを見せ、騙してお金を巻き上げる。人として最低のことをしている集団なのだ。
考えてみれば当然である。世の中に存在する詐欺集団はみんな悪人である。しかし、分かりやすく悪人として振る舞っている者などいない。人を騙そうとする者は、みな善人のような顔をしているのだ。
映画の前半がシリーズらしくないゆったりした物語であるのも、騙された絶望を演出するためには必要な描写だったように思う。
この一連のシーンで、例えば「詐欺集団のメンバーがにやりと笑うカットがある」とか「裏であからさまな工作をしている描写がある」とか、演出で胡散臭く見えてはいけないのだ。あくまで善人らしく振る舞っていることを見せつけることで、それが後半のゲームパートに活きてくる。ここを丁寧に描いたのは良い演出だったと思う。
そして、後半。ジグソウであるジョン・クレイマーは、詐欺集団の居場所を特定して全員を拉致し、デスゲームを仕掛けるのである。
久々にシリーズを見て思ったのだが、よく全員の居場所を特定し、見事に拉致できたものである。さまざまな協力者がいるとはいえ、わりと自分自身も病気を抱えた上で現場に突撃していくので、やはり「妄執の為せる業」としかいいようがない。
しかし、肝心のゲームだが、これに関しては正直に言えば他のシリーズ作品のゲームの方が見せ方は巧みであったように思う。
というのも、本作のゲームはそれぞれの難易度にバラつきがある上に、「実質ゲームをクリアしているにも関わらず、時間差で敗北している」というような納得しづらい描写がかなりあるのだ。
例えば、時間制限をかけて「足を糸ノコで切断し、断面にチューブを刺して規定量の骨髄を採取する」とか「頭蓋骨を開いて脳漿の一部を溶液に付けて鍵を手に入れる」とか。
どちらも、プレイヤーが選ぶべき一番苦痛を伴う選択を実行し、必要条件をクリアしている。にも関わらず、機械側の判定が遅くて負けてしまうのだ。なんともやりきれない。2人ともよく頑張ったと思うのだが。
足の切断も脳みそ取り出しも、3分以内のクリアを迫られるゲームだった。「他のゲームが同じく短時間で実行されているか」と言えばそうでもなく、人によっては10分だったりもするし、第1作目でアダムとゴードン医師が仕掛けられたゲームは7~8時間ほどもあったりした。ゴードン医師が3分以内に足を切断しろと言われたら助かっていなかったかもしれない。
しかし考えてみれば、アダムも鍵を排水溝に落としたら即アウトだったわけで、「全ての者に償いのチャンスはあるべきだ」と言うわりに、意識的にか無意識的にか、ジョン自身は救いたくない人間はなるべく助からないようにゲームを仕掛けている気がしなくもない。
そして、これも不満と言えば不満なのだが、ジョンがジグソウとして人前に出過ぎている。
ジグソウは、その特徴的なビリー人形を使ってプレイヤーに説明をするのが常だった。今までのゲームではほとんどがそうだし、説明ビデオでもわざわざビリー人形に口パクをさせて手作りしているのだ。
なのに、本作に至っては無防備な状態でプレイヤーの前に堂々と姿を見せ、会話をしている。自分の言葉で怒りをぶつけたい気持ちもあったのかもしれないが、全員が詐欺の過程でジョンの身の上を知っているわけで、仮にゲームで生き残った者がいたらそこから警察にバレるのは必至である。
ジョンは「全て計画通りだ」と言うかもしれないが、この辺は映画を最後まで見ても納得できそうな計画とは思えなかった。はて。
終盤は、「プレイヤー側に一発逆転のチャンスがあるように見せて、実は計画通り」という『SAW』シリーズらしいどんでん返しがある。
「Hello, Zepp」はやはり名曲だが、しかしこの音楽を以てしても本作のオチは弱い。
ジグソウとして前面に出過ぎた弊害として、ジョンもアマンダもセシリア側に一時的に拘束されてしまうし、無関係の子供まで巻き込んでゲームをさせられる羽目になってしまった。この辺はグダグダである。あの状況では、オチに行く前にジョンもしくはアマンダが殺されてしまう可能性もあったし、上手いこと罠にかかるとも限らなかった(実際、セシリアが建物から一度外に出ている場面もある)。
しかも、子供を巻き込んだのは完全にジョンの誤算である。
そのゲームを乗り越えて「立派な戦士だ」なんて、ちっとも良いこと言ってないぞ。
やはり、「命の尊さを学ばせる」とか善人っぽいこと言ってても、デスゲーム仕掛けて大量に殺してる殺人鬼。どっかズレてるのだ。信用しちゃいけねえ。
こうして見ると、たっぷり時間を取って観客もフェアにゲームを見ることができた1作目が見事だったのだ。
本作の、前半を丁寧に描くアプローチはなかなか良いと思う。その反面、詐欺集団側の心理的な描写が薄くなってしまい、やってきた罪への反省や後悔というような感情を描く暇がなくなってしまった。セシリアも一番の強敵ではあったが、終盤で一気に小物化してしまった感は否めない。
今後の続編では、ゲームのギミックとしての面白さ以上に、ゲームに臨むプレイヤーの心理ももう少し丁寧に描いてくれたらと願わずにはいられない。
ところで、本作は年代的に20年前の話ではあるが、ジョン・クレイマーは変わらずトビン・ベルが演じている。
もともと老け顔であるし末期癌患者の役ではあるのだが、今のトビン・ベルが演じていても違和感がない。御年82歳でもまだまだこれだけの芝居ができるのは嬉しい次第である。
さらに面白いことに、ジグソウの助手であるアマンダ役でショウニー・スミスも続投しているのである。
最初に見た時は流石に時の流れを感じさせたが、今どき流行りのCGや若メイクで加工したりすることもなく「年齢のことなんて知ったことじゃないね」と言わんばかりの態度である。これはとても良かった。確かに、あの姿で「アマンダだ」と堂々と登場してきたら確かにアマンダだと信じざるを得ない。映画の面白いところだ。
ついでに、ラストシーンでホフマン刑事もチラッと登場する。彼にもやはり「老けたなぁ」という印象はあったけれど、嬉しいサプライズだ。
「血まみれになるジョン」や「頭の包帯を剥がすジョン」など、1作目のオマージュもいくつか見られたが、それ以降の作品も決して無かったことにはしていないらしい。
次回作もすでに制作が進んでいるらしいので、年齢なんて気にせず、このメンツでいつまでも元気に新作を作り続けてほしいものだ。がんばれ、ジグゾウズ。
[引用]
Kevin Greutert (Director). Saw X [Film].
Lionsgate Films, Inc. (2023)