生存報告17
海外のNetflixで『火垂るの墓』が配信開始されたので、よく取り沙汰される『火垂るの墓』の論争を題材に記事を書こうとしていた。
監督である高畑勲さんの『火垂るの墓』に関するインタビューは3つあることを知っていたので、それぞれを引用してきてサクッと記事がまとめられるかな、などと考えていたところ、なんとよく持ち出されるインタビュー記事が不正確ということがわかった。
ちょっと待て。それでは話が色々変わってくる。
「清太を糾弾するとは! やはりそんな冷たい時代がやってくることを監督は予言していたのだ」的な文脈でみんなが何度も持ち出してきていたのに、誰一人正確な言葉を知らなかったというのか。
一箇所だけ全文を載せているブログがあったのだが、それは流石に一次資料としては扱えない。やはり元に当たらねば、ということで、メルカリで1988年5月号のアニメージュを落札した。また出費がかさむなぁ。
しかし、やはりそうだろうなと納得はしていた。
というのも、生前の高畑監督が他のインタビューでは「清太を糾弾する意見はむしろあってほしい」ということも語っていたからだ。とすると、清太に対して厳しい言葉をぶつけた“おばさん”に共感する人がいてもおかしくはないのだ。
「どっちの意見が正しい」とか「こう見るのは間違っている」とか、そうした言い争い自体がすでに的を外しているということだ。
実際、高畑勲さんくらい一見して不可解で矛盾を抱えた人もいない。
「人と人は協力し合わなければならない」という作品を作りながら、自分自身はあまり人とコミュニケーションを取らなかったりする。現場では多くの人に負担をかけるし、期日は守らないし、融通は利かないし、みんなが守ってきた慣習を破壊するし。
期日をきっちり守り、ブツブツ言いながらもなんだかんだで多くのスタッフと仲良くなってしまう宮崎駿監督とは正反対だ。
しかし、作品や著書などを色々見ていると、こうした矛盾に見える部分にも“高畑勲”を形作っている信念があると、なんとなく分かってくる。
掘れば掘るほど新しい発見がある。彼を語るなら、引用の抜粋の意訳だけでなく、もっと深堀っていかねば無礼というものだろう。