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ターミネーターは失敗する

2024年8月29日。Netflixでアニメ『ターミネーター0』の配信が開始された。
僕は生粋のターミネーターオタクなので、本作のことも以前から大変楽しみにしていた。メインクリエイターのマットソン・トムリンについても『ザ・バットマン』の脚本にも携わったことを知っていたため、監督デビュー作の『マザー/アンドロイド』も鑑賞してバッチリ予習をするくらい期待をしていたのである。

配信開始後、本作はアメリカ本国ではロッテントマトでも90%以上の高評価を出したという。しかし残念ながら、個人的な感想としてはあまり良い作品とは言えなかったというのが実情である。
作品自体の細かな感想を述べるのはまた別の機会にするとして、
(ところで、マットソン・トムリン。お前、デビュー作に続けてまたカレル・チャペックのウンチク披露を脚本に使いまわしてたなァ?)
今回は「伝説となった『ターミネーター』『ターミネーター2』より後の作品が何故あまり良い作品にならないのか」ということについて考えてみた。

まず、映像作品として存在する『ターミネーター』シリーズは以下の通りである。(ゲーム作品やそれに付随するCGアニメーションは省略する)

  • ターミネーター(映画)

  • ターミネーター2(映画)

  • ターミネーター3(映画)

  • ターミネーター サラ・コナー・クロニクルズ(ドラマ)

  • ターミネーター4(映画)

  • ターミネーター:新起動/ジェニシス(映画)

  • ターミネーター:ニュー・フェイト(映画)

  • ターミネーター0(アニメ)

これらの作品のうち、原作者であるジェームズ・キャメロン監督によって作られたのは最初の2作までであり、3作目以降は他のクリエイターによって制作されている。(『ニュー・フェイト』ではキャメロンも製作に名前を連ねているが、脚本や演出には関与していない)
そして、この『ターミネーター』フランチャイズは、第1作・第2作の圧倒的な面白さが根幹となっており、後の作品は全てこの2作品を追いかけて作られていると言っても過言ではない。

『ターミネーター3』は2作目の直接的な続編となっているし、『ターミネーター4』では第1作目を彷彿させるオープニングタイトルやCGのシュワルツェネッガーの登場、1・2作目に登場したサラ・コナーの写真やサラ・コナー役のリンダ・ハミルトン本人によるテープ音声、2作目でジョン・コナーが聴いていたガンズ・アンド・ローゼズの楽曲などが使われたりしている。
ドラマ『サラ・コナー・クロニクルズ』も2作目の直接的な続編であり、現代から未来にタイムトラベルをする展開や、描かれていなかった細かな設定を多く取り上げていた。
『新起動/ジェニシス』では、大掛かりなCG技術を駆使して1作目・2作目の完コピをした上で、さらに独自のタイムトラベル理論を展開して、半ばリメイクのような形で物語を展開した。
『ニュー・フェイト』は、1・2作目に出演したリンダ・ハミルトンを再起用し、2作目の直接的な続編として2019年を舞台にした新たな物語を描いた。
『ターミネーター0』では、ジョン・コナーなどの重要人物については作中の人物が間接的に言及する程度になっていたが、核戦争が起きる年などは1・2作目に準拠しており、その他1・2作目を意識したオマージュなどは多数見受けられた。

これだけ1・2作目を意識しているにも関わらず、これらの作品の出来は1・2作目と同じシリーズに肩を並べられるほど良作になっているとは到底言えない。
もちろん「それぞれの作品にも良いところはある」ということは重々承知しているし、僕自身も各作品で好きなシーンであったり面白いと思った要素もたくさんある。
しかし、だからといって作品自体の大きな荒や悪い部分を見逃せるほどではないし、良い部分を活かせていないことがそもそもの問題であることは、製作者が何度もシリーズの仕切り直しをしていることからも明らかであろう。
(ドラマ『サラ・コナー・クロニクルズ』は当初かなり好評であったが、シーズン2の中盤あたりになると本筋とは全く関係のないストーリーが散見されるようになり、遭えなく打ち切りとなった)

では、3作目以降の『ターミネーター』フランチャイズは一体何が良くないのだろうか。
それはハッキリ言えば、ジェームズ・キャメロンが描いた作品の主題ではなく、要素を取り入れて続編を作ろうとしていることである。

1作目のストーリーは「未来からやって来た殺人マシーンに狙われた女が、同じく未来からやって来た男に守られながら逃亡する」というものだ。
そして、そこで描かれたのは「孤独でつらい人生を歩んできた男が、苦難を乗り越えて命懸けで愛した女を守る」という強烈な愛の姿だ。救世主ジョン・コナーはこの愛の結晶であり、ターミネーターはそれを阻もうとする巨悪である。
そのため、多くのSF要素がストーリーを彩ってはいるけれども、実際はこの愛を描くことこそが全ての根幹となっている。
2作目のストーリーも1作目とほぼ同じだ。「未来からやって来た殺人マシーンに狙われた少年が、同じく未来からやって来たマシーンに守られながら逃亡する」
しかし、ここで描かれたのは、男女の愛ではなく、家族愛や人類愛などといったもっと普遍的な愛である。
少年はその生い立ちや境遇によって、家族と離れ離れになってしまい、半分グレたような孤独な人生を歩き始めていた。しかし、ターミネーターの出現をきっかけに母と再会し、絆を取り戻し、さらには自分たち(人類)の人生を取り戻そうと奮闘する。
強烈な存在感を放つT-1000のビジュアルエフェクトや度肝を抜かれるようなアクションシーンは多くの支持を獲得したが、それもこの作品で描かれた愛や人生に対する問いかけがあってこそ光るのである。
名シーンと言われる溶鉱炉へターミネーターが沈むラストシーンは、「機械が愛を知ることができるか」という問いかけに対する答えなのではなかったか。

つまり、重要なのは「自分たちがこれから(ターミネーターだけでなく不確定な未来に向かって)どうやって生き延びるか」という生きた視点であり、タイムトラベルの仕組みがどうだとか、運命が変わるとどうなる、こいつが死ぬとこいつも死ぬ、液体金属がどうだパワーセルがどうだ、などといった、理屈をこねくり回す物語ではそもそもない。
第一、元凶とされた敵の防衛コンピュータであるスカイネットですら、作中では詳細な設定がほとんど明かされていないにも関わらず、1・2作目は綺麗に完結している。

確かに、未来と過去が回帰して繋がっていたり、荒廃した未来の戦争の風景があったり、見たこともない技術で開発されたマシーンやガジェットが登場するSF要素は楽しいかもしれない。
だが、それも基礎となる主題の物語がしっかりと描かれればこそ活きるのであって、それこそが初期の『ターミネーター』シリーズを名作たらしめていた部分なのだ。
もし、今後もSF要素ばかりに気を取られたシリーズ作品が作られるとすれば、『ターミネーター』は再び失敗するだろう。

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