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全部を支配しようとしないこと

仕事だとか趣味だとか立場上の付き合いだとか、人には色々な形の関係がある。
そうした交流の中では、音楽や映画や文学やスポーツ、歴史の話や時事ネタなどについて、会話が交わされることがあるかもしれない。それは、自分の好きな話題かもしれないし、あまり聞きたくない嫌いなことかもしれない。
しかし、関心のあることでもないことでも、自分が知っていることを発信したり、あるいは興味のないことを聞いたりして交流することは、その人の様々な変化を促す。
もしかしたら、知っていることでも話しているうちに違ったポイントに気がつくかもしれないし、人の話を聞くと、普段の生活の中では知り得なかったことや、あまり関心がなかったけれども話を聞くと興味を持てるようなことを知ることになるかもしれない。
人は社会的な生き物なので、本人が望もうと望むまいと、何かしらの交流を経ることは刺激になり、それが成長のきっかけになることもある。

しかし、心の成長というのは、自分ではなかなかコントロールすることはできない。
例えば、歴史が好きだという人がいるとしよう。人から何か話を聞いているうちに、徳川幕府の将軍の生活に興味を持つかもしれない。
その時、真面目な人は「将軍に興味を持ったのなら、初代将軍から最後の将軍まで全部覚えなければ」と思ってしまうかもしれない。
しかし、これは大きな落とし穴である。その人が興味を持ったのは、将軍の生活やそこで繰り広げられる政治のドラマであったかもしれない。なのに、ご丁寧に将軍の名前一覧や年号や出来事を一つ一つ覚えなければと考えてしまい、時間を費やしてあまり関心のない知識を頭に詰め込もうとしたら、それはただただ楽しみを苦痛に変えるだけでしかない。

これはスポーツなどと同じだ。
テニスが好きだと思ってトレーニングしている人全員に「じゃあオリンピックを目指してハードなメニューを組もう!」とは言わないはずだ。
スポーツの世界は厳しいものだけれど、その厳しいものだけがスポーツではないし、「トップを目指さなければ意味がない」なんてこともないのだ。

何かを「好きだ」と思って色々集めたり調べたり活動したりする人は今のご時世もそれなりに多いと思う。
だが、好きと思ったり関心を持ったりすることは「コンプリート」を目指すものではない。何かを好きと思ったり関心を持ったりするポイントや程度は人それぞれで、それこそが人間の多様な感性なのだ。
自分の好きなこと・興味を持ったことは、まさに今の自分自身であり、無理に押し付けられたものにはなれない。たとえ自分が「こうなりたい!」と思ったとしても、簡単にはなれない。

心は脆い。関心の芽はちょっとしたことでも簡単に枯れてしまう。しかし、自分自身のペースでゆっくりと見守っていくことで、自分も自分の心もいずれ相応しい姿に成長するだろう。大切に育てていくことだ。

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