「社会」に慣れないアラサー
こんばんは。ひとり日本酒飲んで酔っぱらいの能鷹です。
今夜は自分語り兼素朴な疑問もとい悩みをお話します。
世の中には、少なくても日本の田舎の私の周りには定型文がありふれている。そして私はそれを使いこなせない。周りはみんな使えているのに。
学生の頃は先生のお話をよく聞いて、与えられて課題をこなせば言動に問題があってもいい子になれる。むしろ才能である。
でも社会人は違う。勤め人でもそうではなくても。
彼らは定型文が上手だ。
「かしこまりました」
なんて、教育で学ばなかった。日常会話にも出て来やしない。毎日毎日会社で言う言葉。未だに慣れない。かしこまるという動作を体がうまく理解できていないので口にするのにためらうのだ。
「すごい、さすがっすね」
大した事できたわけでもないのに、なぜほめなければいけないのか。相槌のように発せられる、感情のない割に、感情をたっぷり込めて言われる賞賛。
「○○必勝法、ばかでもできる○○、○○になるための習慣」
決まり切った所詮営業トーク。だけど惹かれてしまう定型文。目に留まり、心に響き、ひっかかる自分も、そういう消費者がいることをわかって使いこなしている相手がいる世界も気持ち悪い。
noteだってそう。売れる文章、読まれる文章を意識して書かれる方が多い。
自分が使いたいから使っている言葉ではなく、ビジネス、とか、仲良くなるために、とかそういう言葉が私は苦手だ。恐怖さえ感じる。
私自身が脳内でそんな定型文で考えていないし、普段使ってもいない。でも社会的役割や戦略でそういう言葉は使われる。
そして皆自然に使っている。どんな感情でどう覚えどう使っているのか私には理解できない。
「り!やっときますわー」
「もうちょい!まだまだいけますよー」
「○○したら○○できたわ!マジおすすめ」
こう言われればとても腑に落ちて素直に聞けるのだ。きっとこれは表の感情も裏の感情も離反せずに発している言葉だから。
でも「かしこまられる」と警戒してしまう。仲間ではないと思ってしまう。怖い。それは戦略的、後天的な言葉だから、本心ではない。ゆえに信用ができない。少なくとも私は本心では使わない。
この気持ちを捨てきれないと、あるいはなんとか許容しないと
私は一生日本社会で、資本主義市場経済で、
生きていけないなと、社会人になれないなと、大人になれないな。と。
そんなことをただひたすら思いながら、
今日も自由で失礼な自分なりの言葉と
嘘を隠し切れない笑顔と、本心を乗せた愛嬌でなんとか生きる。
共感してくださる方がいると、生きやすいな。
今日も読んでいただきありがとうございました。