2才になる娘へ [長女が生まれた頃のおはなし]
2才になる娘へ
[長女が生まれた頃のおはなし]
1月22日(1986年)
ベランダにおなかをつき出すようにして日向ぼっこ。何を見ても、何をしても気持ちは陣痛を待っている。「会いたい。頭の先から足の先まで見てみたい」と話しかけてみた。
蟻の巣のような狭くて暗い地下道へ迷い込んでいく夢をよく見る。体が大きくてとても前には進めそうになく、後戻りも不可能で呆然と迷い込んでいく・・・。
あの夢は何を物語っているのだろうか。まるで胎児の原体験のようではないか。とすると、それはまぎれもなく私自身の最も古い記憶・・・?
1月23日
午後4時14分女の子を無事出産。お産は格闘技みたいだった。全身をたたきつけられる、押し寄せる嵐の波のようでもあった。吸引分娩だったため大きく裂けたらしい。縫った跡が針をさされるような痛みで眠れない。
長いつらい夜。痛みの中ですがるような気持ちで深夜ほおばったロールカステラのやさしい甘さよ。本当に長い夜だった。けれどこれが我が子の無事のために母として最初に受けた試練だと思えば誇らしい。
1月24日
新生児室のガラス越しに対面。黒い眼に涙をためて私をじっと見つめてくれた。うれしくて、うれしくて、いとおしくて涙があふれる。この腕で抱きしめてあげたい。
昨夜対面したお父さんの第一声は
「実感わかないなぁ。真っ赤だったよ。真っ赤な顔して泣いてた。」お母さんには「良かったネ」
1月25日
午後3時初めての授乳、おむつ交換。母乳は出なかったけど、赤ん坊が一生懸命吸ってくれた。腰かけることさえできなかった裂傷の痛みもこの時ばかりはすっかり忘れて。
「かわいいね」
「いい子だね」
と語りかけながらまた胸があつくなる。
この日出産届け。ささやかな人権宣言。
1月26日
マッサージしていたら右の乳首から一滴だけお乳がもりあがった。富士山の頂上から朝日がのぼったみたいでまぶしかった。
薫。
薫はこんなふうにしてこの世に生まれ迎えられたんだよ。そして1988年1月23日、2才になるんだね。
薫のいのちを予感した日から日記を再開し、それは今日まで続いているのだけれど、思い出が鮮やかなままで一杯詰まっている
産めること、産みたいと思えることがうれしくて、心を開いて未来を待ち望み、受け入れることができた妊娠中から出産の頃。
「障害のある子が生まれてもおかしくない時代」
と言う父さんの
「どんな子でも、引き受けよう」
という意志は母さんを本当に楽にしてくれたんだよ。
半年ぐらいは夢の中。桜吹雪の中、立ち止まって長い間、薫を見ていたこと。初夏の木もれ陽のベンチでお昼寝。泣けば芝生にしゃがんで胸を開く。ゆったりと自然の恵みを味わっていたよね、二人して。
子育てを通して新しい友にもたくさん出会えたね。世界が広がるようで楽しかったし、共感することも多かった。
でも、仕事からすっかり離れてしまった私は家庭の中にしか存在感がもてないと感じて、いら立ち始めてもいた。そんなもやもやがエネルギーに変わるのを知ったのは、森先生という恩師を囲んでのゼミを再開し、その記念に文集を編集してみたいという夢を見た時。
きみは覚えているかな?
7ヶ月の頃金沢へ、1才2ヶ月の頃上田へ、お母さんと二人で旅をしたこと。そこでお会いした森先生や、友のこと。あの頃母さんは時間さえあれば机に向かっていた。薫は時にはその横でおとなしく遊んでいてくれたね。
あのことを通して私は、子どもといてもたいていのことはできるし、どこでも行けるという自信をつけた。
今考え直してみると、子どもがいたからこそやれたのかも知れないと思えて、薫に感謝しているんだよ。
そして何よりもね。常に人が歩いた跡を、人の視線を気にしてオズオズと歩いているようなこの私が、
「たとえ一人になってもこの夢は持ち続けよう」
「人の評価にとらわれるまい」
と真実考えられたことが、本当に貴重だったのです。薫が大きくなったら、読んでほしいな、あの文集「モラトリアム」
きみはお父さんが好きだね。
ワイシャツや車を見ると「トーチャン」を連発するね。ぞうさんのうたののかえうた
「とーさん とーさん だぁれが好きなの あのね かおるが好きなのよー♪」
もお気に入りだね。
お父さんが夜遅く会社から戻って来る時のドアの音を、お母さんより早く聞きとることができるね。お父さんも薫のことをとってもいとおしんでいるんだよ。
だけどお母さんは時々お父さんを責めてしまう。もう少し薫につきあってやれないのか。仕事とゴルフの練習を精一杯しちゃうので家にいる時は心身とも疲れて、薫が呼んでも、私が世間話をしても答える余裕がなくなっている。
「もう少しだけ家族のための時間を残しておいてョ!無視しないで!」
と心の中で叫んでいるお母さんなのです。
でもお父さんが元気に働いてくれるから安心して生活できると思うと、生活力のない私は強く言うことができない。
でも淋しさ、もの足りなさがつのると、寒い夜帰宅したお父さんにコーヒーさえ気持ち良く出せない・・・。
でも、でも、ばかりが重なって暗い気持ちになってしまうことがあるんだ。
「これで家族っていえるのかな」
って言ってしまったこともあった。
だけどね、この頃になって、お父さんも家族を大事に思って、お父さんなりの形でかかわろうとしていると思えてきたんだよ。
お正月に長岡へ帰省した時、お父さんがこういってくれた。
「薫といる時間なんてごくわずかなんだけど、こんなになついてくれている。それは多分、俺がいない時、母親が子どもに対して、父親を尊敬するようなことを言ってくれるからだと思う。俺はそれでいいと思う」
お母さんはハッとさせられた。そんなふうにみていてくれたなんて気がつかなかった。
帰省から帰ってきた時には、しつけのことで心配していたね。「よく泣くし、一人でごはんを食べないし、甘えん坊だし。夜泣きはどうして治らないんだ?少し生活がルーズになってやしないか?もう少し厳しくしたほうがいいんじゃないのか」
とお父さんは言っていたんだ。
その時私は素直じゃなくて、すぐ反発してしまって、
「生活のリズムが狂ったのはお正月だからで・・・」
とか何とか言い訳をしていたけれど、後になって、
「シマッタ、オトウサンガカンシンヲモッタトキナノニ・・・」と反省。
お父さんとお母さんはなかなかタイミングがあわないみたいだね。
でも、お父さんは見ていてくれるね、薫。安心していいよ。ただし夜ふかし、遊び食いは許しませんゾ。
薫が2才になる記念に何か書こうと思い、日記を読み直したりして、さぁっとふり返ってみたけれど、どれもこれも短い言葉では言いきれないことばかり。でも、お母さんはいつも誰かの存在に支えられていることを改めて感じます。そして、薫と一緒にいて良かった、と。薫のパワーがひしひしと伝わり、私もしっかりしなくてはと思っています。
薫も人に生かされている赤ちゃんの時期を卒業して、自分をつくっていく大事な年になりそうですね。お母さんは今年も、そんなあなたの育つ姿を書きとめていきたいと思っています。
お父さんもお母さんも薫を愛しているよ
2才の誕生日おめでとう。
おちちのおと
お乳を吸う音って おもしろい
「ハシュハシュ」とか「シュパシュパ」とか「カシャカシャ」に聞こえる
乳首に伝わる感じもいろいろ
おかいこが桑の葉を食べているみたい
ジュ-ってお乳が流れていく時はかおるののどがウクンウクンと鳴る
出ないとうなりながら乳首を左右にひっぱったり手をふりまわしたり、お乳を飲む時はとっても表情が豊か
充分飲み足りるとニコーとよく笑う
くたびれていても疲れをとかすような笑顔で
ゲップをさせるために肩にかついでほおづりをする
ほっぺがやわらかくてあったかい
息がお乳のにおい
気がつけば 私も同じにおい (2ヶ月のころ)
もーいいかい もーいいよ
かおるさん
おなかの中があったかくて安心だとはいっても
もうそろそろ出ておいで
外は冬
冷たいからっ風も吹いていて
霜柱もたっているけれど大丈夫
ふかふかのふとんを用意して待っているよ
おまえの名まえをつけた父さんが
どんな顔でおまえと対面するのか早くみたいから
おーい赤ちゃん
もーいいよー
でておいでー (出産直前)
1988年1月「ひとりから 5号」掲載