'もっとうまくやること'の終局

人間と類人猿の関係形成について、大変興味深い実験が行なわれたと言います。

性格や哲学、人間関係の形成などにおいて非常に似たような性向(才能)が見られる2人の人類学者を、同種のお互いに異なる類人猿集団に送って、1年余りの期間、類人猿たちと一緒に生活させたのです。

1年が過ぎて帰ってきた時、1人の学者は送られた類人猿集団で時間が経つほど、もっとよく同化して、ついに彼らの一員になったかのようにとても楽に過ごして戻って来たし、もう1人は戻ってくる日まで、依然として類人猿たちの"外部者(侵入者)"として、非常に不便な状況を耐えて戻って来たと言います。

果してこの2人の間にはどんな差があったのでしょうか?

分かってみると、最後まで類人猿と同化できなかった学者は、発生しうる非常事態に備えて、密かに"銃"を隠して類人猿集団に入っていたことが後で確認されました。
類人猿のうち、1匹もその"銃"を見ることはなかったと言いますが、既にその学者は自ら"真心"を尽くさなかったのであり、だから結局"客"の立場を逃れることはできなかったのです。

中国の唐の時代の臨済禅師という方は、"隨處作主 立處皆眞"という名言を残しました。
"どこへ行っても、その場所で主人になりなさい。そうすれば、自分の立つ場所はどこでも真になる"という意味です。

"作主"、"主人になる"というのは、実に厳重な表現です。
あることをするにおいて、真心で行なうべきことをすることが'作主'の生です。困難があっても、危険があるとしても、受け入れて、すべてを投げ捨て、最後までやり遂げる人生です。だから"作主"こそが"もっとうまくやること"において、最も重要な核心の前提となるのです。

これに加え、"もっとうまくやること"の完成に関して、最初から"路線(道)"が異なるべきです。もっとうまく、もっと早く行けるかという問題とは別に、目的地が米国なのか欧州なのかによって、その道が異ならなければいけないようにです。結局、"もっとうまくやる"ことを通して、究極的にどこへ行き着くのかという問題になります。

最も理想的な"もっとうまくやること"の"完成"を望むならば、自分自身に真剣に問わなければなりません。

"自分はこの仕事において"主人"になっているだろうか?"
そして
"自分が決めた'路線'、つまり自分が行って立つべき場所を、しっかり設定したのか?"

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