わたしがマルタに行ったわけ
2014年から2015年にかけてわたしはヨーロッパの小さな島国、マルタ共和国に住んでいた。
小さな頃から独立心が強く一人で出かけたり、一人で遊んだり、誰かと連むことが好きじゃなく、かと言って友達がいないわけでもない。ただ自分のペースで生きてきた。早く地元の福岡を出たかったし、出来れば海外にも行きたかった。とにかく知らない世界や知らないものを知りたいという欲求が強かったのだ。
大学生になり、東京で暮らし卒業したら留学もいいかも、と考えていた。でも止めた。わたしが福岡を留守にしている間に祖父が癌になった。わたしが心配するから、と手術を受けたあとに連絡があった。一瞬混乱したが福岡に住むことにした。その時は色々と逡巡した。他の国に行きたいと言いつつ祖父を言い訳にして逃げていないか?何年も経って、海外に行かなかったことを祖父にせいにしないか?とか。
それから海外に住むから海外に行くに切り替え休みの度に旅行した。祖父もそれから3度ほど手術をしたがわりかし元気に10年以上生きた。留学してもよかったやん、とも思うし、一緒にいられてよかった、とも思う。
わたしは親孝行とかするタイプでもないし、親が子供のために何かするとか当たり前やろ!と思うくらい性格が悪いが人間なのだが社会人になって初めてのボーナスで祖父母と沖縄旅行をした。祖父が仕事で携わった場所を巡ったり、祖母の好きなタコスを食べに行ったり今でも良き思い出になったと思う。なにせ祖母はかなりの出不精なので勝手に予約して勝手に決めた。
祖父と仲がよかったのは、共通の趣味のカメラがあったこともあり、一緒に撮影のためのワンデイトリップで長崎に行ったり、祖父が学生の頃に撮った古い写真を眺めたり、写真談義をよくしていたことも起因していると思う。
圧倒的に料理が上手だった。弟なんて、今まで生きてきて一番楽しかったことは4歳くらいの時に餅つき機(決して臼と杵ではない!)を買ってもらっておじいちゃんと一緒に餅つきして丸めたこと、と言っていたし、わたしもその時の事は覚えいる。その餅つき機は今も家にある。
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我が家ではおじいちゃんの作る鶏の唐揚げが一番人気で小学生の頃、毎週末祖父母を訪ねる楽しみの一つはおじいちゃんの手料理だった、今でもおじいちゃんの唐揚げが好きすぎて他では食べられなくったくらい。
わたしや弟、孫にとっての祖父と母や叔父にとっては父親では少し印象が違う。父としての祖父はちょっと怖い存在だったようだけど、どう考えてもわたしにとってはこの上なく優しいおじいちゃんだった。アルプスの少女ハイジのおんじみたいなものかな?周りにとってのおんじとハイジにとってのおんじは全然違うみたいな・・・
亡くなる前の数年は少し認知もあったけど、一緒に犬の散歩によく出かけた。
2014年、山笠の前に祖父は倒れた。偶然なのか、意識のある状態で最後の話ができたのはわたしだった。約一ヶ月後、夏の暑い日に祖父は死んだ。本当に空が青くて澄み切っていた。いつもは近い空が遠く高く感じた。
人が死ぬと色も失くなるんだと思った。空の青さと死んだ人の色のなさのコントラストは順番とはいえ、もう見たくない。
祖父が亡くなった数日後、マルタで仕事をしませんか?というリクルートメールが届いた。面接はスイスだった。祖父が亡くなって悲しくてしかたない自分と悲しんでいても何も変わらないという冷静な自分が混在していたので、環境を変えよう、そしたら何か変わるだろう。変わらなくても、昔考えてた海外に住む、という経験ができる!それなら乗っとこう!それでメールを受け取った週末に面接のためスイスに行った。月末にはマルタに引っ越すことになった。元々フットワークは軽い方だけど、平時だったらこんな瞬時に決断できたかどうかわからない。
愛情を使い切っても余りが出るくらい受け取ってるから一人でいても孤独を感じにくいんだよ。
ある人に言われた言葉だった。同じようなことを何人かの大人に言われた。
祖父母だけでなく、両親も信じられないくらい愛を注いでくれている。それは年を重ねる毎に実感が湧いてくる。大人になって人々がわたしの行動をどう思うかというのを知ったから。それに伴いわたしの愛のバケツは満タンかそれ以上になる。パレスチナがいくらわたしが大丈夫って言っても行ったことのない人にとってはあの辺ってすごく危ない場所に見えるから。それを文句一つ言わずに送り出してくれる人もなかなかいない。
わたしの今の価値観や行動の根源あるもの、人生を変えたというより人生観を決定付けた人はやはり祖父だったのかなと今は思う。
祖父の命日が夏とともにもうすぐやってくる。