メディアが権力に屈したら、国家は国民を虐げる──安倍晋三銃撃事件
これは、ルーマニアのドキュメンタリー映画『コレクティブ 国家の嘘』(原題「Colectiv」、2019年)の中で、スポーツ紙の編集長、カタリン・トロンタン氏が国家的な不正、虚偽を告発した際に口にした、メディアの使命についての言葉である。残念ながら、原語であるルーマニア語は解さないが、英語版の公式トレーラーにこの発言が含まれており、英語字幕を確認できた。
Collective – Official Trailer from Magnolia Pictures & Magnet Releasing
意味は、ルーマニア語版に対する日本語字幕の通りで相違ないが、敢えて異なる訳を充てるとしたら、
「メディアが権力にひれ伏せば、権力は市民を虐待する」
といった具合(直訳だけれども)。いずれにしてもメディアの立ち位置を端的によく表現しているように思うが、しかしこんなことは、どこの国や地域、どんな時代であれ、既によく理解されているはずのことである。
7月8日、安倍晋三元首相が遊説中に銃撃を受け、心肺停止となったというニュースが飛び交った直後は、この事件について、民主主義への挑戦だとか、言論封殺だなどといった表現が一定程度の説得力をもって語られても無理からぬ状況ではあった。それは純粋に時間的な問題であって、事の詳細や犯行の動機が分かりようもない事件直後の時点においては、参院選投票日を2日後に控えた選挙中のことでもあり、反射的に政治的な背景を想起することが、当然と言えば当然のことではあったからだ。
しかし、容疑者は事件を起こした後、その場であっさりと身柄を拘束され、事件について特に口を閉ざすこともなく、淡々と供述し、かなり早い段階、事件発生当日の夕刻あたりまでに、そこに政治的な背景がないことを明らかにしていた(「安倍元首相銃撃の容疑者『特定の宗教団体幹部を狙っていた』と供述」、毎日新聞、2022年7月8日16:29配信)。
仮にこれが虚言で、本当は政治的信条を動機とする事件であったのだとしても、少なくともメディアや政治家がこれを民主主義への挑戦だと捉える根拠はなかったはずである(発生1週間を経た7月18日現在、さらに23日現在でも同様)。何をもって、言論の封殺、民主主義への挑戦だなどと、いつまでも(選挙がつつがなく終わるまで)声高に訴え続けていたのか。何ら根拠を持たないまま、民主主義への挑戦だ、民主主義の危機だなどと言い続ける態度は、はたして、安倍元首相の衝撃的な死を、情緒的側面から、もしくは不用意に危機感を煽って選挙に利用しようという気がなかったと言えるものだろうか。あるいは何だか高尚らしい言葉を口にすることで、まるで民主主義の守護神にでもなったかのような気分に酔い痴れていたのだろうか。
ここぞとばかりに叫ばれた民主主義ではあるが、民主主義とは、まるでそこに当然あるように言葉にして唱えるだけで存在するものではない。政治家の、特に安倍元首相自身を含む、与党の態度はどんなものだったか。それほど民主主義が大切だと言うのなら、それを擁護する態度を実践しなければならなかったはずであったし、これからもそのことは変わらない。しかし、そうした気配をどこに感じ取るべきなのか。有権者は選挙に関心がないまま寝ていてくれればいいだとか、野党の話は聞かないなどといった発言を悪びれもせず口にできる人間を内包する(あるいは許容する)集団に、どんな民主主義を期待できると言うのか。こっちは笑って聞いていればいいのだろうか。民主主義とは何なのか。これは政治の側の問題。
対して、メディアはどうだったか。事件から数日、少なくとも参院選の投票日が過ぎ去るまで、大手メディアは、この「特定の宗教団体」の具体的な名称を伏せ続けた。何のためか。特段の意図がないなら、入手した情報は速やかに明らかにすべきだし、単なる容疑者の供述内容に過ぎないこの点を、事実関係と照らし合わせて確認を取る必要などあるはずもない。なぜなら、まさにそれは容疑者がそう思ったという心の内のことに過ぎず、事実関係とは別の次元の話だからである。しかし同時に、その発言自体は本人の考えたこととして事実であり、それを踏まえたその後の作業として、容疑者の発言の内容がどこまで事実に合致するものかという検証を経ることで初めて、容疑者の考え方の客観的な評価ができる。
むしろメディアは、事実関係を確認しようとするほど、容疑者である彼の考えが、単なる「思い込み」程度の話ではないことが明らかになることに、心を痛めて予め配慮したということなのか。選挙を控えた数日というのは重要ではあるし、悲劇的な事件をセンセーショナルに伝えるに越したことはなく、被害者の側に疑惑を及ぼしかねない犯行動機では、安倍元首相の死に、思うような彩りを添えられないとの判断があったのか、犯人は歴史的な政治犯でなければならず、被害者は民主主義の否定たる凶弾に斃れたというヒロイックな筋書きが是非とも必要だったのだろうか。
安倍元首相が銃撃された場面は、悪趣味と思えるほど繰り返し画面に流し続けながら、容疑者の動機の核心に関わる存在を「特定の宗教団体」とまで伝えはしても、その具体的な名称を事件から2日を経るまで報道しなかった大手メディア各社である。民主主義への挑戦とは、この報道姿勢以外のいったい何を言うのだろうか。
ロシアによるウクライナ侵攻後、ベラルーシに取材に出向いたジャーナリストの金平茂紀氏が、尊大な態度で詭弁を弄するルカシェンコ大統領から、「ベラルーシにおけるジャーナリズムはアメリカや西側、ウクライナ、いや、日本よりも自由かもしれません」(報道特集「ベラルーシ ルカシェンコ大統領への単独インタビュー」、TBSテレビ、3月19日放送)と宣わられても特に言葉を返さなかった(らしい)現状を、まさに今、目の当たりにする気分である。
事件後、参院選も自民党の圧勝に終わり、さらに容疑者の供述やその経歴がかなり詳らかになってきた今も、事件を安倍元首相と距離のあるものとして扱いたいメディアやコメンテーターが存在する。容疑者を「無敵の人」の一種とし、他の事件の犯人と一絡げにする手法もあれば、事件を説明する際、「一方的」、「逆恨み」、「思い込み」などという全く不必要、かつ文脈上、何ら意味を成さない表現を多用し、いかに容疑者の妄想から事件が起こされ、安倍元首相が謂れのない被害に遭ったかを演出、強調するといった手法もある。これうした姿勢は、件の宗教団体が7月11日の会見で、協会に対する恨みと安倍元首相殺害との距離は大きく、その理解に困惑すると言い、自らを事件から遠ざけようとする姑息な論法を用いたことと何ら変わらない。
表現上の演出として、「一方的」、「逆恨み」、「思い込み」のいずれもが今回の事件でよく使われている言葉であるが、容疑者の立場に立ってみれば、これらの言葉は全く文脈を逸脱したものであり、他者の主観を紛れ込ませた、誘導的とも言える言葉遣いである。容疑者本人にしてみれば、一方的でもなければ、逆恨みでも、まして思い込みでも何でもない。安倍晋三元首相(のみならず、遡って祖父の岸信介氏も)が、自らにとって諸悪の根源である教会と深い関係にあると信じるに足る事実(UPFへの肯定的なメッセージの発信等)の積み重ねを踏まえて、これを殺害しようとしたのである。
事件後、特定の宗教団体の存在が動機に関わっているらしいと報じられた当初から、容疑者は安倍元首相が特定の宗教団体と関係があると「思い込み」、凶行に及んだという表現が使われていた。これは情報源である警察の話を容疑者本人の供述そのものとして報道した形である。言葉を扱うメディアが、この発言、語法を奇異に感じないどころか、こぞってそのまま使っていることに違和感しかない。自らの望む方向性に合致する言葉として都合よく無批判に利用しているのか。ここまで周到に事件を実行した容疑者が、事件当日のうちにその動機について「思い込んで」などと口にすることがあり得るだろうか。あり得るのだとしたら、まだ事件の衝撃がインフレを起こしていた事件当日中という極めて早期と言える段階で、ほかでもない容疑者本人が、自らの標的であった安倍元首相に対する考えを突如一変させ、元首相は宗教団体と無関係だったと結論したということなのか。なぜ? 事件直後に青天の霹靂のような、彼の考えを180度転換させる何かが起こったか、警察の中の誰かが親切にも彼に言って聞かせ、彼がそれに納得したとでも言うのだろうか。
しかし、そんなことはあり得ない。それでもメディアにとっては、奈良県警から出たこの言い回しが重宝したのだろう。まるでうっかり容疑者が自らの浅はかな思い込みだけで今回の凶行に及んだというような印象を生み出したかったのではと訝しむ。他者の主観を織り込んだとしか思えない表現を、敢えてそのまま、まるでそれが容疑者本人の言葉であるかのように報道することで、不穏な憶測を呼ぶような事態を避け、安心したかった姿勢が透けて見えるようである。しかし何のために?
以下は、事件当夜に奈良県警が開いた記者会見を受けての各社報道である(配信日時順)。
ここまでは、記者会見での奈良県警の説明をメディア各社がそれぞれ記事にまとめたものであるが、実際の会見で、この違和感のある「思い込んで」という表現がどのように現れたかを伝える、一問一答記事からの抜粋を下に挙げる。
特にMBSニュースによる記者会見の全容記事(2022/07/09 22:28)を見ると分かるが、「思い込んで」という言葉を持ち出し、執拗に使ったのは奈良県警であり、これを容疑者の発言としてカギ括弧に収めて記事にしたのがメディア各社である。
なお、見逃しがあるかもしれないが、ざっと調べた限り、読売新聞オンラインではこの「思い込んで」という表現を使った記事の存在を確認できなかった(対して、朝日新聞デジタルは上掲の通り「思い込んで」で事件当日中に2本の記事を配信している)。読売新聞が配信した、奈良県警の当該会見を踏まえての記事と思われるのは翌朝(9日07:55)付のもので、他社が、県警の拘る「思い込んで」をそのまま織り交ぜて報じた部分については、以下のように独自にまとめている。
さらに、この記者会見全容記事で明らかなように、県警側の説明に現れた「思い込んで」という表現に疑問を持った記者は存在したし、具体的な質問として「特定の団体に関連があると思い込んで?と言っている?実際はそうでは無い?」と訊ね、問い質している。これに対する県警の回答が、「本人はそう思い込んでいるということでございます」というものであるが、これは、容疑者の認識について県警がそう判断したと言っているに過ぎず、容疑者本人が実際に「思い込んで」という言葉を口にしたと言っているものではない。
しかもこの回答を踏まえた次の質問で、安倍元首相と特定の団体との実際の関係の有無について警察が把握できているということなのかを確認されると、県警側は、それについてはこれから捜査を進めていくと答えている。県警は、自分たちの展開している支離滅裂な論法に無自覚なのか、無頓着なのか、そもそも自分で話していることの意味が分かっていないのか。つまり、県警は何ら確証や根拠がないまま、容疑者は思い込んでいるのだと主観で断定しているということである。予め仕込んできたとしか思えない表現に説明が追いついていない。この用意された表現は、先走った政治的な配慮か、あるいは何らかの責任逃れのための工夫なのか。
しかし、メディア各社も(ごく一部を除いて)ここで思考を停止し、県警の用意してきたこの白痴的な言い回しに乗る。「思い込んで」を容疑者の発言と解釈できる形で報じた状況は上に挙げた通りである。なぜ県警の主観をそのまま容疑者の発言として記事にすることができるのか。その表現の根拠を確認する質問にも揃って上の空だったのか。事実を確認するよりも、信じたくない事実からは顔を背けようということなのか。
メディアは言葉に敏感でなければならないのではないか。意図を持って、情報の伝え方、伝わり方を操作してはならないのではないか。言葉を弄んではならないし、理屈の通らない語法や曖昧さには気を配り、自らの発信する情報に責任を持たなければならないのではないか。メディアは一方的な思い込みで読者や視聴者を誘導してはならない。向くべき本来の方向を見誤り、上目遣いにどこかを見ながら情報を伝えるのだとしたら、もはやメディアとしての存在理由も価値もないのではないか。
国境なき記者団(REPORTERS WITHOUT BORDERS)が毎年発表する「報道の自由度ランキング(PRESS FREEDOM INDEX)」の2022年版で、日本は昨年から順位を落とし、180か国中71位にランクされた。
これに対して、国家的な不正を毅然と訴えたトロンタン記者のいるルーマニアは日本を上回る56位、ジャーナリズムの自由度について日本よりも自国の方が高い可能性をうそぶいたルカシェンコ大統領のベラルーシは153位であった。
メディアが健全であるからといって、必ずしもそれに比例して権力が健全であるとは限らない。実際、トロンタン記者を始めとする善意の人たちがどれほど不正を正そうと力を尽くしても、権力の側の放つ虚言に身を委ねた多くの市民の目を覚ますには至らず、やっと進めたはずの時計の針がいとも簡単に巻き戻されてしまったように。しかし、自由で健全なメディアが存在すれば、簡単なことなど何もないとしても、そこに希望はある。だが、そうしたメディアが存在しなかったら、どうだろうか。