想像していなかった未来をもたらしてくれるのは、いつだって「人との縁」がきっかけだった。
人生はいつだって想定外の連続だ。
いつの間にか自分が思い描いていたのとは別の道を進んでいることが多い。
中でも、今までの人生において、
「まさかこんなことになるなんて想像もしていなかった!」
と強烈なインパクトを残した出来事は、次の3つではないかと思っている。
少し長くなるが、どうか最後までお付き合いいただけると嬉しい。
高校の部活選び
最初のターニングポイントは、「高校の部活選び」だ。
中学生の時に見に行った高校の文化祭で、物珍しいマンドリンの演奏に一目惚れした私は、「この高校に入ったら絶対マンドリン部に入る!」と決意を固めていた。
ちなみに「マンドリン」とは、イタリア生まれのギターに似た弦楽器のことだ。ピックで弦を弾くことで、優しく繊細な音色を奏でる。
形は正面が「しずく型」で裏が丸く膨らんでおり、よく「イチジクを縦半分に割った形」と例えられるのが特徴だ。
・・・そう、決意していた、のだが。
マンドリン部の見学に向かうはずの足は、なぜか合唱部の方に向いていた。
きっかけはよく覚えていないのだが、1人で部活動見学に行くのも寂しいと思い、勇気を出して誘ったクラスメイトの中に、合唱部の見学に行きたい!と言い出した人がいた・・・からだと思う。
私が1人で合唱部の見学に向かうはずはないから、きっと誰かと連れ立って行ったはずだ。
そうして見学に行った先で、1人の女の子と出会った。
長い黒髪とメガネをかけた、第一印象「ザ・真面目そう」な女の子である。
少し話をしてみて、「あ、この子とは気が合いそうだな」と思った。
聞けば、この合唱部に入りたいと言う。
もっといろいろ話をしてみたいと思ったが、私はただ流れで合唱部の見学に来ただけで、別に入りたいと思って来たわけではない。
私の本命はマンドリン部である。
でも、彼女とはクラスも違うし、ここで別れたらもうそれっきりになっちゃうんだろうな。。。何だかそれも寂しいな。。。
そう思った私は、気付いたらあれほどまでに入部を熱望していたマンドリン部ではなく、彼女を追いかけて合唱部に入部していた。
歌は好き、だけど合唱は特別好きなわけではなかった私が、部活見学でたまたま出会った1人の女の子との仲を深めたいというただそれだけの理由で、本来の希望を蹴ってまで合唱部に入ったのだ。
中学の時は、合唱部に入るなんて微塵も考えていなかったので、文化祭のステージ発表はもちろん見に行っていないし、活動内容さえまともに知らなかった。
本当に、こんな状態でよく合唱部に入ろうなどと思えたものだ。
我ながらものすごい執念である。
ちなみに、ふとしたきっかけで、私の入部理由が彼女にあることは当の本人にも知られている。
ドン引きとまではいかないが、かなり驚かれた。
うん、私自身がいちばん驚いてるよ。。。
入部してからの3年間、彼女とは大変濃いお付き合いをさせていただいた。
「ザ・真面目そう」な第一印象はどこへ行ったのか、「コイツこんな奴だったか・・・?」と思うくらいキャラ変した。いい意味で。
「この子とは相性が良さそうだ」という最初の直感は、どうやら間違っていなかったらしい。
まあ間違っていたら、高校3年間の貴重な青春を棒に振るところだったので、結果オーライというやつだ。賭けに勝って良かった。
彼女のおかげで、合唱部に入らなければ一生縁が無かったであろうこともたくさん経験できた。
個性豊かな仲間たちとたくさん交流できたこと、
定期演奏会でピアノ伴奏に挑戦したこと、
定期演奏会のミュージカルで役を演じきったこと、
関東大会や全国高校総合文化祭で遠征に行ったこと、
文化祭ステージ発表の司会中に起きたハプニングを乗り切ったこと、
・・・・・・
どれも忘れがたい大切な思い出ばかりだ。
特に、私に輝かしい青春をくれた彼女には、最大限の感謝を伝えたい。
部活で出会った仲間たちは、今もどこかで元気にやっているだろうか。
大学のサークル選び
次のターニングポイントは、「大学のサークル選び」だ。
入学時、ちょうど女優・広瀬すずさん主演の映画「ちはやふる」が公開されたばかりで、競技かるたがちょっとしたブームとなっていた。
「中・高と音楽系の部活に入ってきたし、大学では音楽系以外の活動でも始めてみようかな」と考えていた私は、ブームにあやかり、勢いで競技かるたサークルに入ってしまった。
気の合う仲間にも恵まれ、最初は楽しくワイワイとやっていたが、思いがけない誤算が1つあった。
競技かるたは、常に勝ち負けがハッキリとついてしまう非常に厳しい世界だったのだ。
今までずっと音楽系の部活一筋でやってきて、厳しい勝負の世界とは無縁だった私は、1試合1試合勝ち負けを競うことに嫌気がさして、次第にサークルから足が遠のいていった。
・・・率直な話、周りが次々と階級を上げていく中、自分だけ取り残されるのがたまらなく嫌で怖かったのだ。
周りに優秀な人が多かったこともあって劣等感を抱き、試合に勝てる自信を持てなかった。
でも、中学で嫌なことがあっても休まず学校に通い続け、高校も3年間ずっと同じ部活を続けてきた身からすると、今やっていることを途中で辞めるというのは、何だか逃げているみたいで、「本当にこれで良いのか?」と正直不安があった。
とは言え、このままズルズルと居座り続けても、競技かるたに打ち込みたいという気持ちが芽生えてくるわけでもなく、事態が好転しないことは目に見えていたので、ある日を境にサークルへ行くのはぱったりやめて、LINEグループからも脱退した。
「もう戻らない」という強い決意の表れである。
たしか、大学1年の秋か冬のことだった。
さてこれからどうしようか、というところで助け舟を出してくれたのが、同じ学科・専攻の友人だった。
彼女は入学時からクラシックギターサークルに入っており、今は時期的に難しいけど、来年の春からだったら入れるよ、と教えてくれた。
高校の時にマンドリン部に入りそびれたし、「楽器を弾いてみたい」という思いは少なからずあったから、このまま何もしないよりはと、次の年にクラシックギターサークルに入ることを決めた。
ただ、来年の春に入るということは、私は2年生になって、つまりは1学年下の子たちと同期になるということでもあった。
今まで年下と同期になった経験は当然ながら無いので、果たして上手くやっていけるだろうかという心配があったし、「自業自得とはいえ、同期は同じ学年じゃないのか・・・」というちょっぴり複雑な思いもあった。
そして次の年の春、2年生に進級した私は4人の1年生と同期になった。
懸念通り、最初は1つ上ということで気を遣われて話しづらそうだったが、敬語を取っ払ってからは、日々の練習や合宿、発表会などを通じて徐々に仲を深めていった。
そうして1年も経てば、年上・年下なんて関係なしに、腹を割っていろいろと話し合える間柄になった。
(さすがに進路の関係もあって、学年は意識せざるを得なかったが。。。)
大学入学当初は、途中でサークルを辞めて別のサークルに入り直すことになるとは想像もつかなかったが、人に恵まれたおかげで滅多にない経験ができ、大学生活を楽しく過ごすことができた。
競技かるたサークルの仲間には申し訳ないが、あの時思い切って辞めて本当に良かったと思っている。
サークルで出会った仲間たちは、今もどこかで元気にやっているだろうか。
会社の部署異動
最後、3つ目のターニングポイントは、「会社の部署異動」だ。
告白すると、私は就職活動をほとんど真面目にやらなかった。
という漠然とした憧れから、志望先はIT業界のみに絞り、その中でも2度の1dayインターンシップを通じて縁のあった今の会社に、大して深く考えることもなく入社を決めた。
なお、安定・高収入・抜群の知名度・充実の福利厚生を誇る大手企業への就職にも相応の憧れはあったので、試しに1社受けてみたことがある。
昔から文章を書くのはそれなりに得意だったので、書類選考は通ったものの、「思ったことが上手く話せない」という致命的な欠点を抱えていたため、その先のグループディスカッションでつまずいてしまい、内定獲得はハナから諦めた。私には過ぎた望みだった。
そうして今の会社に新卒で入社し、3ヵ月の研修を経てとあるシステム部門に配属される。
ただ、ちょうど配属された時期が部署の繫忙期と重なってしまったため、OJTトレーナーの先輩の指導のもと、慣れない作業にヒイヒイ言いながら、毎日夜遅くまで大量のテストケースと格闘した。
慌ただしさが少し落ち着いてきた頃、とある機能の開発を任せられた。
でも、システムは内部で深く関連し合っており、1ヵ所の変更が多くの箇所に影響を及ぼすことを知ってしまったので、もし自分がコードをいじることで何か取り返しのつかない不具合を起こしてしまったら・・・と思うと、怖くてうかつに手を出せなかった。
結局、開発作業はほとんどOJTトレーナーの先輩に手伝ってもらった。
先輩に手取り足取り教えてもらわなければ、機能1つまともに完成させられなかった状況に、「自分がこの先エンジニアとしてやっていくのはもう無理かもしれない」と思った。
そして何より、開発が全く楽しいと思えないのだ。
先輩はよく1on1で、新しい技術やプログラミング言語の話を楽しそうにぺらぺらと語っていたが、私は残念ながらそちらの方面にはあまり興味を持てなかった。
入社前はたしかにあったはずのプログラミングのワクワク感は、自分の無能さに打ちひしがれてすっかりしぼんでしまい、あとは次々と振られるタスクをきちんとこなせるだろうかとビクビク怯える気持ちだけが残った。
・・・こんな気持ちを引きずったまま仕事を続けるのはまずい。
どう考えても不健全だ。
エンジニアとしてのキャリアに完全に見切りをつけた私は、配属から半年後のOJTが終了するタイミングを待って、PM(プロジェクトマネージャー)および部長に部署異動を願い出た。
さすがにOJTの途中で投げ出すのは、お世話になった先輩に申し訳が立たなかったので。
異動先は、開発系の部門でなければどこでもよかった。
たった半年しか経っていなかったが、厳しい現実に直面して自信喪失した心を守るためには、こうするほかなかったのだ。
やはり、仕事は憧れではなく、適性で選ぶべきだったのだろう。
幸いにも異動願いは通り、60~70代のシニア社員が在籍する法務部門へ移ることになった。
声がとにかく大きくて、会話の内容がフロア内にいる人にすべて丸聞こえとなってしまうクセの強い70代男性上司に悩まされながらも、2年ほど業務に携わった。
その後は2023年4月にあった組織改正をきっかけに、新しくできたマーケティング部門へ異動し、現在に至る。
大学卒業間際や入社直後は、「真っ黒なプログラムコード画面を見ながら、キーボードをテンポよくタイプしていく」憧れのエンジニアになるものと思っていたが、まさか半年で挫折し、巡り巡ってマーケティング部門で仕事をすることになるとは、人生何が起こるか本当に分からないものだ。
組織改正を経て新設されたマーケティング部門に配属とならなければ、今こうしてnoteを書いていることもなかったのだから、縁というのはつくづく不思議なものである。
まとめ
ここまで、想像もしていなかった未来を引き寄せるきっかけとなった3つの大きなターニングポイントを並べてきたが、そのどれもに共通しているのが「人の縁」ではないかと思う。
高校では、部活見学でたまたま出会った1人の女の子を追いかけ、もともと入部するつもりのなかった部活に入り、輝かしい青春時代を過ごした。
大学では、競技かるたサークルを脱退した後、同じ学科・専攻の友人を頼って、クラシックギターサークルに入り直すという滅多にない経験をした。
会社では、エンジニアとして限界を感じた自分の想いを親身になって受け止めてくれたPM(プロジェクトマネージャー)と部長の協力もあって、部署異動の希望を叶えることができた。
想像を超えた未来をもたらしてくれるのは、いつだって周りの人がきっかけだった。
周りの人々のおかげで今の自分がある。
人に恵まれた幸せな環境でこれまで生きてこられたことに、心からの感謝を捧げたい。