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【連載小説】地獄の桜 第二十七話

 僕にとって、さくらの行先の唯一の手掛かりといっていいのはあの『Cherry』という店だったが、久しぶりに店を調べてみると、驚いたことに廃業していた。
 それが分かってから、僕は電源が止まったように、しばらく何も考えることもすることも出来なくなったが、次の日、やっとの思いで「何か食事をとらなければ」と外へ出た。

「お久しぶりですねぇ」
 相変わらず絶妙な声の枯れ方をしている。室内のくすんだ感じも、以前のままだった。それだけが救いだった。
 その『救い』を感じて、僕は曖昧なため息をついた。久しぶりに来て、いつもと違った沈鬱な僕の様子に、さすがの店主も首を傾げる。何のことはない、心の行き場を失った僕は、例の行きつけの喫茶店『グラナダ』に結局足を運んだのだ。
 仕方がない、仕方がないんだ、と心の中で呟きながら僕は喋るのを避けるかのようにタバコをくわえて火をつけた。
店主は何故か「フン」といった声で目を細めて、優しい笑顔をしていたが、僕は気づかない振りをして、目を閉じた。そうしていると、今までのさくらとのあれこれが目にいくつも現れては消えて、思わず泣きそうになって、目頭に手を当てた。でももうそんなことをしようとしているうちに涙は既に流れかけていた。

「生きるということは、大変なことです」と店主が唐突に言った。
「うるさいよ」と僕はふがふが言いながら軽く怒鳴り返した。
 僕は苛立ちを隠せなかった。何も僕の最近の事情を知らないくせに、僕のことを分かった風な言い方をして、そんな愚かな言葉が、頭の中で次から次へと流れて行ったが、タバコを吸っていたのが幸いだった。
 一気にそれらを言おうとした僕はむせてしまい、結局こんなことを言うだけで済んだのだから。
「ゴホッゴホッ、こんなに信じていたのに……こんなに愛してきたのに……さくらは僕を見捨てた……何も言わずに見捨てた……」

 コーヒーと食事を胃に入れて活力をやや取り戻した後も、しばらく悲しみに沈んでいた。
 店主のおじさんは、その間一言も話しかけなかった。しばらくするとカウンターの奥へ行ってしまい、そこで何やら作業をし始めた。

 再び店主の顔を見たのは、平静を取り戻して二杯目のコーヒーを頼もうとした時だった。
 カウンターまで歩いて声をかけると、「もう気は落ち着きましたか?」と店主は笑顔で応えた。
「まあ多少は……」
「恋に効く薬はないんですよ。あえて言えば、時間ですかねぇ」
「恋からは覚めた気がするけど、絶望が治らない」
「それには何でもない日常を見つめることですかねぇ」
「何でもない日常? ……って何?」
「さあ、考えることですねっ」
 店主は謎めいた笑みを自身の顔に貼り付けていた。

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