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【連載小説】地獄の桜 第二十九話

 スケッチを始めてから数年が経った、とある一月の昼頃だった。その日も一心不乱に僕は川を観察し、スケッチをしていた。
 すると突然後ろから肩を叩かれた感触を感じ、びっくりして前のめりになった。
「ごめんごめん、声をかけても答えないから、つい。
 キミの絵はとても素晴らしいねー。いつもここで絵を描いてるの?」
 仕方なく僕はその男に、無言で頷いた。正直な話、その瞬間もひたすら絵に集中したかったのだ。
「シェアハウスに一緒に住まないか? 家賃は私が持つから……」
「んあっ、水道光熱費はどうなりますか? あと食費とか?」
 突然僕が急に食いついてきたので、男は一瞬目をやや大きくして固まった。
「あと、そうして頂く代わりに何か条件はあるんですか?」
「ああ、それなら簡単だ。今まで以上に熱心に絵を描いてくれればいい」
「……」
 ややワイルドな口ひげを生やして黒縁のどこかキザな四角い眼鏡を掛けた男だった。歳はやや年配に見えるが、ややウルフカットにしたような長髪が不自然なほど黒く、風になびいていた。
 男は僕の無言にも動じずに、笑顔で見つめていた。そしてこう続けた。
「キミはただ絵を描いていればいい、分かるだろう?」
「えっ? それってどういう……」
「一度個展をやってみないか」
「はぁ。個展」

 でも僕はもはやそういったことに対しては興味を失くしていた。
「もう厄介事は、いいんです」と呟いた。すると男が声を荒げ始めた。
「厄介事? キミは分かってないね。キミのその絵に対する熱意、それが何よりの証拠じゃないか!
 キミには素質があるんだよ。キミは自分の好きなことをここまで突き詰めて今までやってきたんだろう。キミの様子を見ていて、すぐに分かったよ。要するに、キミは自分の好きなように生きる、それだけを考えて今まで生きてきたんだなって。
 キミは本当に絵が好きなんだろう? だったら今からでも挑戦できるんだよ。生きているうちに、キミは何回でも挑戦できる! キミの好きなことで世界に挑戦することが! ……」

 自分の今いる世界で良く生きるには、後悔をしないことが大切ですからね。
 そのためには自分の好きなように生きる、それだけですね。
 そんな喫茶店のマスターの言葉を僕は思い出していた。

 それが、僕の職業が画家に変わった瞬間だった。

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