【連載小説】地獄の桜 第十五話
僕はそのコメント者の投稿した小説(と言えるものか知らないが)をまるで我が事のように苦々しく思いながら、ふと自分の左指の人差し指の根元のあたりが腫れているのを見つけた。
どこかにぶつけたか? と最初は疑ったが、すぐにあの蚊とやらのせいだと気が付いた。
人の血を吸うだけでこんな腫れを作ってしまう、これは悪い蚊だと思った。おまけに僕の血をわざわざ吸いに来るというのが、なおのこと悪趣味だと思った。
僕の住む薄汚れた町では、かつて大気汚染が問題になったと聞いたことがあった。そして今、酒とたばこと夜更かしと過労で汚染された僕の血を吸った蚊は、確かに見かけた時は普通のよりもどこか巨大で、グロテスクな形をしているように思えたが、果たしてこの蚊も血液により汚染されているのだろうか、などと考えてみたりする。人類の歴史を蚊がしょうもない形で繰り返している。
「まあ、せめて僕の血を吸っただけで一生を終えておくが良い、他の人の血を吸いに行く前にな」
そんな風に、さっきから中々見つからない蚊に僕はそう語りかけてみる。
「他の人の血まで吸ってしまうと、この僕の非モテや酒癖やらが伝染して、いらぬ迷惑をかけてしまうかも知れないからなー」
そう言いつつ、僕は心中では「早く蚊を退治しなければ」と焦っていた。
最近水場に良く出るからそこかと思って、果たしてそこにいた。
不摂生な僕の血を吸っている割には良く肥えた蚊なものだ、と僕は改めて感心したが、血の吸い過ぎなのか、愚鈍な動きで洗面台の上をノロノロと低空飛行する姿は、泥酔する僕の姿にどこか似ているなと思った。でもだからといってそこに愛着を感じるよりも、これ以上体を虫刺されで腫れさせたくないという思いがやや上回り、何回か鏡を叩きつけるようにしてバン、バンと二、三回はたくと、蚊はあっけなく墜落した。
蚊は僕の流す蛇口の水に瞬く間に流れて行った。
それを見下ろしながら僕はほんの僅か不思議と湧き立つ得体の知れない感傷を感じていた。その感傷の中には、薄汚い罪悪感と、漠然とした不安とがあった。
しかしその感傷がなぜ起こるのか僕には分からなかった。それはたぶん、単に蚊を殺してしまったという訳ではなかった。きっともっと深く、何か広い意味を持つもののように思えたが、それは何なのか、忘却したか、理解できないのか、何かの予感なのか、それすらもやはり定かではなかった。どうでもいいが今「定か」を変換したら「貞香」と出てきた。清楚な感じのする名前で、うむ、悪くない。
しかし、忘却、それは今の僕には一番『らしい』感傷だ、そう僕は思って、ウイスキーの瓶をわざわざ自らの懐に寄せてしまう、性懲りもなく、まさに迎え酒じゃないか。
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