ペラい同情などいらない。私の痛みはそんなところにないのだ。
2019年11月の話。
次女の訃報を知らせる相手は必要最小限にとどめたかった。
そのことを文字であれ言葉であれ、形にしたくなかったからだ。
ともあれ、参加予定していたイベントへの欠席通知や入ってたシフトの交代依頼などはしなければならない。
連絡を受けた方も戸惑っただろう。
だれも経験したことのないこの場面で、
どんな言葉を返したらいいのか。
当事者として、いちばん正解だと思うのは、
『あまりに突然のことで、
なんてお声かけしていいか言葉が見つかりません。』
というものだった。
配慮のできる人はそんな風に言ってくれた。
そのままでいいと思う。
あまり例のないことなのだから分からなくて当然だ。
そこからウワサは千里を走ったのだろう。
しばらくすると、何人かの人がメッセージをくれた。
みんな私のことを心配してくれて、
どうしようかとさんざん悩み、
でも勇気をふりしぼって、
連絡をくれたに違いない。
と思うと申し訳ない。
が、「子供を亡くす」という稀有な体験をしたものとして、こちら側がどんな思いだったのかを打ち明けたい。
まず、できればそっとしておいてほしい。
そして、こちらから話すだけの情報で満足してほしい。
なぜそんなことになったのか?
いまどうしてるのか?
これからどうするのか?
確認したいことは山ほどあるだろうけど、芸能レポーターのようなことはやめてほしい。
確かめたいというのはあなたの欲望であり、薄くかさぶたがはった傷口をもう一度ひらくようなことはしたくない。
それから、アドバイスじみたこともやめてほしい。
残された家族がちゃんと生きることが最大の供養だとか、
あなたが悲しんでる姿を望んでいないとか、
そんなこと百も承知だ。
天から見守ってるとか、
あなたの経験が誰かの光になるだとか、
この歌を聞いたらとか、
この本を読めだとか。
そんな風に考えられるようになるには時間がかかる。
自発的に辿り着くならいいが、上から目線で言うことではない。
一番腹立たしかったのは「逆縁」についての理解が足りないことだった。
子供を亡くすことは、親を送ることと根本的に違う。
人がこの世からいなくなることは、何歳であっても悲しいことには違いない。
が、親が先に亡くなるのは自然なことであり、「逆縁」は守ってあげるべき存在の子供が先に逝ってしまったのだ。
特に母親はお腹にいた時からのマイナスの時代からの記憶がある。
それはもう悲しみではなくて、苦しみなのだ。
そこを混同して、
「私も父が亡くなった時は、悲しくて…」
と自分のことを引き合いに出してくる人がいた。
それがどんな慰めになるというのだ。
あなたの悲しみと私の悲しみは種類が違う。
私のことを思って言ってくれるはずの言葉に深く傷ついた。
ペラい同情などいらない。
私の悲しみはそんなところにないんだよ。
シャローな慰めもいらない。
言葉は私の輪郭をすべって落ち、
心に染み込むことはない。
ほどなくして私は既知との関係を一切断つことにした。
と言っても「縁切り宣言」をしたわけでもなく、一方的に心の中でシャッターを降ろしただけだが。
お断りしておかなければならないのは、
私はかなり変わっている人間だという事。
かなり細かくて複雑な思考をすると思う。
もともと同情されるのが嫌いだし、
一緒に泣かれたりするのはまっぴら。
自分の感情の中に許可なく入ってきてほしくない。
だから私の気持ちが同じ経験をしたすべての人を代弁していると思われることを危惧する。
あなたのまわりにいる大切な人は、
肩を抱いて一緒に泣いてくれることで救われる人かも知れない。
絶望の海で溺れかかっているなら、救いの手をさしのべてあげてください。
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