桜の季節に死んだ子の年を数える。
またこの季節がやってきた。
あれから三回目の誕生日だから、彼女は生きていれば今日で36歳になる。
寅年生まれの年女で、今年はさぞかしワイワイ言ってた事だろう。
愚痴ではない。儀式だ。
彼女が生まれた病院のあたりを歩いて写真を撮る。
最後に食べさせてあげられなかったいなり寿司を作ってお供えする。
ケーキも買った。
満開の桜の中、この世に生まれて来て、そして、もうこの世にいないという事実。
アニバーサリー反応なのだろう。
日が近づくに連れて、身体がおかしくなってきた。
肩がガチガチに凝り、夜中に目が覚めた。
どこに身を置いていいか分からないような不安定感。
今年は満開のピークに雨が降らなかったので、花がまだ持っている。
特に土曜日と重なり、コロナ自粛にも辟易した人々が、花見の名所に繰り出していた。
満開の花と人々の狂騒。
それと娘がいない事との落差が余計に悲しい。
あと何回、同じ思いでこの日を迎えるのだろうか。
この2年半、コロナ禍で人との接触が制限された中で、私は剝き出しの悲しみの周りに厚い皮膚をまとうことができた。
恐らく、人から見ると、一見何事もなかったかのように快活に暮らしている。
思いのままに、新しいことにもチャレンジし、決して我慢したり、頑張ったりしてるわけではなく、ごく自然に生きている。
だが心の中には、悲しみの水溜りがある。
悲しみはボディブローのように、年を追うごとに効いてくる気がする。
何回も意識に上る度に、悲しみは精製され純度が高くなり、より鋭いものになるのだろうか。
いやむしろ、何度も反芻するうちにデフォルメされ、象徴的な画像となって固定されるのだろうか。
先日、偶然、同じような環境の人と話をする機会があった。
その方は、私より10歳ほど上で、10年ほど前に娘さんを闘病の末、亡くされた。
明るくケラケラと笑う人だが、
「年が行くほど、余計にこたえてくる。この虚しさが薄まることなんてない。」と言った。
その言葉に私は自分の未来を見る。
想定内だ。
この悲しみを抱えながら、
命を与えられる限り、生きて行くしかないのだと覚悟を決めた。
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