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音声メディアの百聞は一見にしかず: 「見ればわかる」と「聴けばわかる」の違い

「百聞は一見にしかず」という言葉があります。

《「漢書」趙充国伝から》人から何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうが確かであり、よくわかる。 -- goo国語辞書より

音声メディアを聴いていると、たまーーに、これをもじって「百読は一聴にしかず」と言われることがあります。

これからの音声の普及という文脈で使われることが多く、「音声の時代がくる」とか「音声メディアの特徴、メリット・デメリット」のような記事や本をいろいろ読むよりも、一回聴いてみてください。そうすれば良さがわかります。という意味で使われています。

音声で生活が変わった自分としてもこの言葉は正にそうだと感じています。

その一方で「百聞は一見にしかず」は100%しっくりくるのに「百読は一聴にしかず」には違和感が残ります。

この記事では、音声メディアが「百読は一聴にしかず」とはいかないことについて考えたことを書いていこうと思います。

「百読は一聴にしかず」に感じる違和感の正体

この言葉に違和感を覚える理由のひとつ目として、まずはシンプルに "聞き慣れていない" ことが挙げられます。

これに関しては異論はないと思います。
音としての違和感ですね。

ただ、これ以外にもう一つ理由があります。
それは、

音声の良さは一瞬ではわからない

ということかなと。

画像や動画といった視覚情報にはすごい力があって、一瞬見るだけで一気に大量の情報が雪崩れ込んできます。それゆえ、良いものの良さは一瞬でわかります
このおかげで「百聞は一見にしかず」が成立します。

それに対し、音声はある程度の時間聴かないと良さがわかりません。聴き続けていくことでじわじわと良さがわかっていくタイプのメディアです。
また、2回, 3回, 4回, ... と繰り返し聴いていくことで、だんだんとパーソナリティのことが好きになっていき、しまいにはファンになってしまいます。

このような特性があるため、「一聴」だけでは判断できないというのが自分が感じた違和感の正体であったと思います。

この「一聴」だけでは判断できないという特徴は、そのまま音声の普及の遅さ、広めることの難しさにもつながっているように思います。

このことを考えたきっかけ

ここからはなんでこんなことを考えたのかについて振り返っているだけなので、気になる方以外は読み飛ばしていただいてOKです。

この記事での話題について、以前から頭のどこかでひっかかる感覚があったものの、実際に画像や動画と音声の違いについて考えるにいたったのは、「百読は一聴にしかず」という言葉を自分でツイートの中で使ってみてからでした。

ここから学んだことが2つあります。

・自分事になっていないことは深く考えられない
・自分の中にある小さな違和感を分解することで発見が得られる

・自分事になっていないことは深く考えられない

ツイートの中で使ったくらいですこし大げさですが、自分事だと思ったことについては真剣に考えるのが人間だなと、改めて感じました。

考えなければならないことがあるのに考えきれないときは、それが心の底から重要なことだと思えていないのかもしれません、

・自分の中にある小さな違和感を分解することで発見が得られる

なにかに違和感を覚えるときというのは、自分の感性を知るチャンスだなと思いました。みんな案外自分がどう感じ、何を考えているのかわかっていないものです (自戒を込めて)。
自分自身の思考回路を知っていくことは豊かに暮らすためにきっと役立ちます。

また、自分がおもしろいと思う発信をされている方の多くは、この世界で起こっていることや、人々の思考を分解して整理する能力に長けていることが多いです。
これができると、日常のささいなことからも学びを得る機会が増えるので、意識的に取り組んでいきたいと思います。

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