「学術的文章」のこわいとこ
はじめまして。ただの大学生です。
最近、いい加減レポートについて真面目に考えなくてはならない段階となり、色々本を読まざるを得ない日々です。
さて。大学生のレポートは、「学術的文章」であることが求められます。
よって、読み漁る文献も「学術的文章」です。
文理関係なく、こういった「権威ある」資料にはアイツがいません。
「私」という主語です。
なぜならば、学術的であるということは、公共的であるということだから。
公共的ということは、客観的ということ。
この客観性こそが資料を「権威ある」存在にするわけです。
怖いのは、「権威ある」ことが私の中で「神話化」してしまうことです。
科学も、心理学も、法学も、人文学も、常に移り変わり刷り直されていることを忘れてしまう。
パンを毎日焦がすことは実はガンの原因じゃない。
昔は普通に誰でも言っていた言葉は、実は大勢の人を傷つけてきたから、今はあまり使われていない。
親を殺したときだけ、他の殺人と違う裁き方をするのは変えましょう。
などなど。
「権威あった」説やモノは変わっていく。
だから、いまそれが客観的なのは間違いないし、ある程度吸収すべきものなのですが、それは一生信じていいバイブルじゃないのです。
大きい主語、難しい単語、そして著者の高い学歴。研究機関のデカさ。グローバルさ。
これらによって、私は読んだものの素晴らしさを感じ、みんながこれを読むべきだと思ったり、みんなこう考えなくてはと思ったりします。
そんなことは無いのでしょう、多分。
発表した側としては、是非主張を広めたいと考えているわけですが、所謂「アンチ」 があってこそ健全、とそこまでわかって発表しているのでしょう。
ところがどっこい、私はそこを忘れます。
「権威」があるってことは、もうそこに反論する方が間違ってるんだと、文献を「神話化」してしまうのです。
これはまずい。なんともまずい。
こういうことを記録しなければ、私はすぐに人のことを損ない、自分を損なってしまいそうなのです。
だから、レポートには書かないけれども、引用の何段階も前に起こった「この人の言葉遣いは激しすぎる」「こんなことまで言えるのかな」という、純粋で、的外れなことが多い違和感たちを、「無かったこと」にはしたくないなと思いました。
こうして書かないと本当に忘れてしまうんです。聞いただけではすぐ忘れてしまう。
私はそういうイキモノです。
私はなんの権威も無いので、もちろん、このnoteに「は?」と思う人がいるし、それは明日の私かもしれません。