人が二人いれば、それはもう世界なのかもしれない
私はXジェンダーというやつで、LGBTでいうとTの一種らしい。T、つまりトランスジェンダーというと、男性の身体に生まれた女性であったり、その逆であったり、というイメージになると思う。Xジェンダーの私からすると、それは一つのトラップで、Xジェンダーをトランスジェンダーと言っていいのか悩んでみたりするきっかけの一つになる。
Xジェンダーは、非常に平たく言えば「自己を形成する要素の中に”性別”という項目が存在することに納得がいかない」ことだと私は理解している。定義としての正しさは保証できないので、正確なことは調べて欲しい。しかし私としては、これで納得している。
では私が先述のようなことを意識する、日常の出来事をあげてみよう。
例えば子供のころ、親が服やおもちゃを買い与えてくれる時。与えられるのは当然ながらどちらかの性の子供に向けての商品になる。私の場合は女児向けのもの。
私は変形するロボットの細かい仕組みや、電池で動く電車のおもちゃが意図したコースをなぞる様子を見るのが好きだった。
しかしそれらは当然のように、最初から選択肢になかった。
何も私に特有の話ではない。きっと同じ苦しみを感じたことがある男性だっていると思う。しかし、私にとってそれは苦しみであり、少しずつ蓄積していった。
なぜ、こうまで「性」に縛られるのか。
自分を構成する一つの要素であることは間違いないが、私はそれ以前に「私」であるはずだ。
最近、救いになっているのがオンラインRPGゲームで、私は「Final Fantasy XIV」というゲームを遊んでいる。
オンラインゲームというと、あまりいいイメージがないことは知っている。寝食を惜しんで画面に張り付き、トイレはペットボトルで済ませる。そういうイメージではないだろうか。
少なくとも、私の周囲にそういったプレイヤーはいない。と思う。皆ごく普通に暮らしている。夜になってログインしてきて、仕事のぐちなんかをこぼしたり、世間話をしたり。そこから垣間見える姿はごく普通の、どこにでもいる「誰か」だ。顔も住所も年齢も、それ以前に名前すら知らない。
しかし、それが心地いいもので、彼らは私を「私」以外で判断しない。そういった情報がないから当然なのだが、私も仲間たちを、その人格でしか判断しない。
男だからとか女だからとか、おじさんおばさん、その他あらゆるレッテルが存在しない。
これが本当に心地いい。
でもオンラインゲームなんだから……
確かに。ゲームは作り物で、架空のものではある。
だが、そこで一緒に遊んだ人、仲良くなって無駄話で盛り上がったりする仲間は確かにどこかに存在する。一緒に戦って、何かを成し遂げ、労いあって、祝った。それだけは架空とは言わせない。
そうそう、このゲームでは、ゲーム内で結婚式を挙げることができる。私のようなレアケースだと、現実に結婚式を挙げるのはなかなかハードルが高い。性的なマイノリティーについて、苦手意識を持っている知人をうっかり招待して、その後の関係に溝を掘るような真似はしたくない。マイノリティーについて理解してもらえればそれは非常に嬉しいが、理解を強いるようなこともしたくない。苦手なら苦手で、それはその人の大切な価値観だからだ。
しかし、オンラインゲームの中でなら、そういった一切合切の面倒ごとなく、気兼ねなく仲間を招待できる。物理的な距離も関係ない。ついでに祝儀の心配もない。
そのおかげで、バーチャルとはいえ、私は大切な仲間に祝われて、大切な伴侶との人生の節目を迎えることができたと思っている。
自分と「誰か」。これさえ揃っていれば、舞台が架空であれ、そこは「世界」になるんだと思う。
その話については、文章の拙い私がいくら言葉を重ねるより、TVドラマ、および映画「光のお父さん」をご覧いただくのが良い。オンラインゲームで関係を築き直す親子の実話が元の作品で、配信サイトで公開されている。
私としては、書籍版がおすすめで、これも電子書籍になっているのでぜひ読んでみて欲しい。