自分という存在を教えてくれた出会い

私は幼い頃から「自分」を定義できずにいた。「自分は自分。それでいいじゃない」というのは私にとってみれば綺麗事で、自分自身で「自分」が定義できないということは他者に伝えることもできなくて、もっと言えば「自分」というのは私という存在の、一番根本にある「拠り所」なのに、それがあやふやだというのは、とてつもなく不安なものだ。

私は幼い頃から「自分」というのを、どんな言葉で形容していいかわからなかった。女性としては見られたくない。でも男性になりたい訳でもない。なんだかどっちつかずで、この世の何もかもから浮いてしまっていて、こんな人間自分だけしかこの世にいないんじゃないか、という気持ちになることもしばしばあった。それが強烈な孤独感になって、夜寝る前とかに襲いかかってくる。子供の頃の狭い価値観の中で、いわゆる「男の定義」にも「女の定義」にも属さない、属すことに強い拒否感、嫌悪感がある私という存在を、綺麗に納められる引き出しが、果たしてこの世に存在するのか。無理やり「男」という引き出しか、「女」という引き出しか、どちらかに自分を押し込まなければならないんじゃないかと、将来に対して強い恐怖感があった。

その恐怖感は成長するにつれて弱くなっていった。解消されていった訳ではなくて、どちらかというと諦めていたと思う。それか、成長するに従って周囲の面倒ごとが増えていき、希釈されていったのかもしれない。そういう時に、私に2つほど大きな出来事があった。

1つは以前からファンだったSound Horizonというアーティストの新曲発表と、それに伴うコンサートツアーだった。「Nein」というアルバムに収録されている「憎しみを花束に代えて」という楽曲で、ご存知なければ歌詞だけでも読んでみてほしいのだが、ある女性が迷いながら「自分」を受け入れていく曲で、男性との失恋から、自分を見つめ直し、自分がレズビアンだということに気づき、それを受け入れていく。そんな楽曲だ。曲自体も大きな衝撃だったのだが、その曲を広く世間に発表できるということ、それを1万人近い人たちが聞きにいくということ、そしてそれが意図したのか偶然なのか、東京レインボープライド会場のすぐ近くで演奏されたということ。それが私にとっては衝撃だった。もしかしたら自分という存在は、思っていたより世間から浮いている訳ではないのかしれない、と思った。この頃には少なくとも自分が「セクシャルマイノリティー」だという認識ができていたので、それも手伝ってそう思うに至ったんだと思う。

もう1つは便宜的に「彼女」と呼ぶが、パートナーとの出会いだった。彼女も私と同じで、2つの性どちらにも属さない人だった。そして彼女の方が「自己」というものについて深掘りしていて、私の知らなかった「引き出し」を教えてくれた。それが「Xジェンダー」だった。まさかこんなに「私」というものがぴったり収まる居心地のいい引き出しがこの世に存在しているとは思わなかった。それから「私」の収まるべき引き出しを教えてくれた彼女を一生のパートナーに、と望むようになるのに、大して時間はかからなかった。

結局、「みんながオンリーワン」と言いながらも、自分を自分自身の言葉で言い表せないということは、それができる人からしたら想像もできないほどに苦痛だと思う。自分という、間違いなく存在しているものを言い表せないと、ひょっとしたら自分が「自分」だと思っているものはこの世に存在しないんじゃないか。存在したとして自分だけなんじゃないか。いやもしかしたら自分が「自分」だと思い込んでいるだけで、自分ってやつは全然違うところにある、違うものなんじゃないか、みたいな不安に苛まれる。その不安というか恐怖というか、孤独というか、そういうものから救い出してくれたこの2つの出会いに、私は心の底から感謝している。

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