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-「バラ色の日々」を探して、生きる希望を探して-

The Yellow Monkeyの歌に「バラ色の日々」という歌があります。

その歌詞のラスト辺りに、「長い鎖につながれても」という歌詞があり、わたしがまだ若い頃、とある人に、「短い鎖に~」の方がわたしはいいな、と言われました。

そのときは、う~ん、という違和感はあったものの、特にそこまで否定も肯定もしませんでした。

その違和感が、今夜、その歌を聴いているとき、少しわかったような気がします。

「長い鎖」という、束縛にしては、ちょっと頼りない緩やかな束縛。

その緩やかなところが、ポイントです。

「長い鎖」というのは、あくまで暗喩であるのは、もちろんの話ですが。

「短い鎖」では、ちょっとばかり絶望が過ぎるわけです。

絶望と呼ぶには、あまりにも救いようがありすぎて、救いの手も差し伸べされていて、そこで絶望と呼ぶには、気が引ける。

そういう現実を捉えた、明確な言葉なのでは、と思います。

多分、自分も含めた多くの人間にとって、絶望と呼ぶには、ちょっとばかり救いようがありすぎる、そういう現実には、思い当たるところがあるのでは、と感じます。

救いようがあり、救いの手がそこにみえる。

でも、だからこそ、0:100で、すべてを完璧に振り切ることなど、とてもじゃないけど、できそうもない。

そういう、日常のしがらみ、救いようがあり、救いの手があればこそ、まとわりついて離れないしがらみのあれこれ、その表現として、「長い鎖につながれても」という言葉は、明瞭な暗喩なのでは、と今夜、ふと思いました。



長くなりましたが、話は変わって、そんな救いの手にまつわる話も、少し載せてみます。

あなたも、わたしも、彼も、彼女も。

どこをどう切り取っても、わたしたちは、縁もゆかりもない、いや、縁やゆかりくらいは、もしかしたら、あるかもしれないけど、他人であるには、違いはありません。

そんな、赤の他人に、ふと自分がちょっと差し出した救いの手を、引き合いに出され、生きる希望になんか、された日には、傍迷惑も甚だしいのかもしれません。

あなたにとって、わたしが生きる希望だ、と言われれば、わたしは別に構いませんが、わたしにとって、あなたが生きる希望だ、とか言われると、わたしは抱えているものが、人よりも少し多めなので、或いは、鬱陶しいかもしれないし、うざったいかもしれない。

そんなとき、音楽やアート、文学などを、生きる希望にしてみようか、という話。

百歩譲っても、音楽やアート、文学などは、そもそも誰かに生きる希望を与えようとしている、そういう作品も少なくないかと思います。

それなら、生きる希望にしてほしい、という作り手の意向と、生きる希望にしたい、というわたしたちの意向が、うまいこと合致して、利害関係が一致することになります。

だったら、傍迷惑も顧みず、誰かのことを生きる希望にするよりも、そもそも生きる希望を与えようとしている何らかの作品に、生きる希望をもらって、がしがし生きる希望をもらっちゃいましょうよ、という算段です。

例えば、それが、わたしにとっては、特にここ最近では、The Yellow Moneyや吉井和哉さんの音楽だったりするわけです。



長くなるばかりで、あまりまとまりのよい記事ではないかもしれませんが、そんなことを話してみたくなり、筆を取りました次第です。

それでは、また季節の巡る頃に。

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