-お金にならなくても、夕日を眺めていたいときがある-
こんばんは。
夏の暑さも、ほどほどに。
いかがお過ごしでしょうか。
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本日は、先日、つぶやきとして、公開した言葉について、記事にしてほしい、とのありがたい声を頂きまして。
ひとつの、記事にしてみようかな、と。
こちらの、つぶやき、です。
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お金にならない、作品を、作ること。
或いは、お金にならない、思考を捨てないこと。
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数年前から、考えているテーマです。
あまり、抽象的な話は好きではないので、もう少し具体的な話をします。
人間に、生きとし生ける人間に、与えられた時間、というものは、限られています。
例えば、時給1,000円のアルバイトを一日に十二時間、その他の時間は、生活のための時間と睡眠とします。
三十年、その暮らしを続けることもできます。
例えば、まったく働かないで、一日に十八時間、執筆をする。
その暮らしを、三十年、続けることも、或いは、環境によっては、可能かもしれません。
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なので、そのバランスなのかな、と。
例えば、わたしの場合は、アルバイトをしていて、たまに在宅の仕事をしています。
在宅の仕事は、仕事を選ばなければ、もう少し増やせるかもしれませんし、アルバイトも、少し無理をすれば、かけ持ちなども、可能かもしれません。
でも、わたしは、そこで、いつも立ち止まって考えます。
アルバイトから、帰宅して、そのあとの時間を、無理をすれば、執筆する余裕はなくなります。
ある程度の、余白を残しておくことで、執筆やアート制作、音楽制作の時間的な余裕や、精神的なゆとりを確保するようにしています。
じゃあ、例えば、それがお金になるのなら、ありがたい話かもしれません。
しかし、現実には、すぐにお金になること、と、すぐにはお金にはならないこと、があります。
例えば、書きたくもない文章をたくさん、たくさん書けばお金になるかもしれません。
作りたくもない音楽をたくさん、たくさん作ればお金になることも、或いは、あるかもしれません。
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そこで、立ち止まることを、ここ数年のわたしは、選択しています。
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よい作品を書けば、きちんと評価してもらえる。
世の中は、そう、うまいこといかない、かもわかりません。
しかし、すぐにお金になるアルバイトや在宅の仕事を、増やして、増やして、お金にすると。
執筆をする時間は、なくなります。
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或いは、書きたいものを書く、というと、人は、好き勝手に生きている、だけではないか。
と、思うかもしれません。
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しかしながら、今の時点で、わたしは、職業作家、として、生きているわけではありません。
自己出版で、作品は販売しておりますが、どちらかといえば、職業としての色味は薄めの活動です。
その中で、そうした環境の中で、思うような作品、好きなように書いた作品、を、生み出すことさえ、ままならない人間に、何が書けるでしょう。
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自分と向き合う、世の中と向き合う。
という、表現を、つぶやきに掲載しました。
そこにも、言及します。
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お金になる作品、お金になる言葉。
お金にならない作品、お金にならない言葉。
というものが、あるかもしれませんし、ないかもしれません。
或いは、昨今の流行りの考え方を、採用するならば、お金にならないかもしれない作品を、誠実に制作して、そのあと、販売に力を入れる、営業活動に力を入れる。
そうした、考え方が、流行りの考え方かもしれません。
しかし、一度、立ち止まることを、選択してみてください。
そうした、考え方の先駆者に、キングコングの西野亮廣氏がおります。
立ち止まるべき、タイミングです。ここです。
キングコングの西野氏は、絵本作家として、映画監督として、成功しております。
しかし、わたしは、十年以上前から、西野氏のblogをこっそり拝見しては、勇気を頂いていた類いの人間です。
西野氏が、報われないかもしれないことにも、叶わないかもしれないことにも、誠実に向き合うことを選んでいた、そういう時期が、西野氏にも、きちんとあった、ということを、わたしは知っています。
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それは、ケースバイケースの話ですし。
すべての人に、当てはまる話ではないかもしれません。
あくまでも、これは、わたしのケースの話です。
そうでない人たちも、世の中にはたくさんいる、ということくらい、いい加減、わたしとて、わかっております。
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あくまで、わたしのケースとして、耳を傾けて頂けたら、と思います。
今のわたしの、境遇において、即席のお金を得られない、地道な制作、地味な活動、草の根をかき分けるような、先の見えない執筆、人の心を、見つめに見つめて、どこまでも、人の心の深淵を知ろうとする、そのお金にならない、言葉をかき分ける日々。
その、腹這いの、草の根を知る日々。
それが、わたしの、作家としての、根源的な底力になり得る、可能性がある。
と、わたしは、考えております。
そこで、ぱっと大金を手にしてしまっては、得られない、地力がある。
という、類いの考え方が、先のつぶやきの、ベースとなっております。
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最近、こういう本を読んでおります。
姜尚美さんの「何度でも食べたい。あんこの本」という、あんこにまつわる、旅記録、エッセイです。
ここ最近では、指折りに素敵なエッセイの書籍です。
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あんこ、について、勉強しているわけではありません。
わたしが、あんこ、について、学ぶことに、即席のお金がついてくる、わけではありません。
まぁ、そういう話です。
とはいえ、長い目でみたら、言わずもがな、といった、ところでしょうか。
なるたけ丁寧な言葉を尽くした、わりには、わたしの心中を、察することを、求めるような文章になってしまった、かもわかりません。
こういうこと、などを、わたしは、いつも一人で考えております。
「孤独のグルメ」ならぬ、「孤独の文学」です。
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いいじゃないか、いいじゃないか。
孤独の文学。
それでいい、それがいいじゃないか。
俺の腹は、ぺこちゃんだ。
明日は、あんこでも、食べたいな。
おっと、忘れるところだった。
明日は、図書館に本を返しに行く。
孤独の文学、改め、孤独の図書館、である。
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