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-わたしが執筆をしているたったひとつの理由-

皆さま、お陰さま、お互いさま。

ニイハオ、お元気でしょうか。

わたしは、それほど元気ではありません。

あぁ、やるせないなぁ、苦しいなぁ、死んでしまおうかなぁ、かっこ死なない、とか思いながら、べらんめえ生きてます。

今夜は、「わたしが執筆をしているたったひとつの理由」というタイトルで記事を書こう、と思い立ちました。

内容は、これから考えます。

むしろ、わたしが執筆をしているたったひとつの理由、って、そのひとつって、何やねん、そこから考える予定です。

わくわくと、楽しい時間に、なりそうです。

最近では、「生配信」というものが、とても流行しています。

なので、わたしも、「生note」を書こうかな、と。

まぁ、noteの記事は、ほとんど行き当たりばったりなので、基本は、いつも「生note」に近いのですが、今回は生粋の「生note」にしたいと思います。

さて、本題に入ります。

わたしは、音楽やアート、短歌なども詠んでいます。

あれは、二年前の夏のこと。

わたしは、いつも以上に、人生に思い悩んでいて。

まぁ、わたしは、ほとんどいつも人生に思い悩んでいるので、いつも以上に、ということは、相当なものでしょう。

占い師の知り合いの方々に、めたくそに占ってもらっておりました。

そのなかで、あるとき。

「短歌を何よりも大事にされていますね」

「絵は子どもの頃から大事にしているようですし、音楽は今大切にされているかと思います」

「小説は、必要でしょうか」

という問いを、投げかけられました。

わたしは、実に、執拗に思慮深い人間なので、何もそこでは即答はせず、一旦持ち帰ることにしました。

「小説は、必要だろうか。うんぬんかんぬん」

帰り道に考えながら、その日か、翌日くらいにモスバーガーに立ち寄り、原稿と睨み合いました。

時期は、八月半ば、であったように思います。

確か、八月末の〆切に向けて、最後の直しをかけていた頃である、と記憶しています。

ちょうどその頃、「短歌研究」誌で、予選通過の報を受けていました。

予選通過、とはいえ、応募者の七割が予選を通過できる新人賞です。

そこで、短歌に絞るか、考えました。

考えましたよね、いろいろ。

それで、結論として、そのとき書いていた小説を指差し、(実際には、別に指を指したりはしてません)、「この小説には、価値がある。プライスレス」という結論に至りました。

まぁ、本当のところを言うと、さすがに「プライスレス」とまでは思いませんでした。

そして、その年は、かすりもしない。

フルスイングの三球三振でした。

まぁ、フルスイングか、わからないし、別に三球というか、もっと何球も投げてました。

その翌年の、その同じ新人賞。

昨年のこと、です。

秋口に、一次審査の発表があり、念願の一次審査を通過しました。

あのとき、迷っていた、あの新人賞です。

プライスレス、です。

そして、その翌年、その翌年が、今年です。

まぁ、言わずと知れた、毎日のように、赤の他人から、こっぴどくばかにされています。

ばかにされること、そのこと自体がトーマス氏のアイデンティティであるか、の如くです。

そんなとき、思い出します。

赤レンガ倉庫で展示をしたとき、隣では横浜トリエンナーレが開催されていました。

「いつか、隣の会場で、あなたの絵を観られるといいな」

また、思い出します。

水戸駅での路上。

「頑張ってください」

そう言って、男子高生から手渡された手書きの応援メッセージ。

「今のうちに買っておいたら、いつか価値が出るかもしれない」

「小説は、必要ですか」

その、ひとつひとつを、忘れるわけがない。

或いは、ここには載せない言葉や、思いなら、ここには載せないが、腐るほどある。

今夜も、めっぽう苦しんでいる。

トーマスおじさんは、びっくりするくらい、めっぽう苦しんでおる。

だからこそ、ここで握り続ける筆を、しかと大切にする。

わたしが小説を書いているたったひとつの理由。

それは、あなたとの。

(交わしてはいない)、約束だから。

うし、格好よく決まった。

お後がよろしいようで。

それでは、また、約束の叶う夜に。

◇ ◇ ◇

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