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-コップの水、について-

先日から、何人かの投稿で、「コップの水」についてのお話を見かけており、わたしも少し持論を展開してみます。

いわゆる、コップにいくらかの水が入っていて、例えば、半分くらいの水を見て、「もうこれしかない」と思うか、「まだこんなにある」と思うか、というお話になります。

この「コップの水」の話は、元々は、精神医学の治療法として、認知行動療法に使用されるお話です。

認知行動療法というのは、現実を正当に、妥当に認識するための治療法、と、わたしは認識しています。

例えば、被害妄想の強い環境では、陰口が聞こえてきたとして、「まぁ、そういうこともあるよね」と、思えなくなりますし、信号が赤に切り替わっただけでも、「わたしがきたから、赤になったのだ」「わたしの存在によって、信号機さえも操作されている」と、感じてしまう、それが、いわゆる、精神疾患の「妄想」というものです。

ですので、その現実への認識を、より正当な、妥当なものに置き換えていこう、という治療の一環として、認知行動療法はあります。

では、ここで、シンプルにコップの水の話を。

このコップの水の話、正当な認知行動療法としては、七分目なら、「まだこんなにある」と捉え、二分目なら、「もうこれしかない」と捉える、それが、わたしの思うこの治療法の正解です。

まだ七分目から八分目ほどあるにも関わらず、「もうこれしかない」とぼやいていたら、それは、欲深いし、多くを求めすぎです。

もう二分目から、一分目くらいであるにも関わらず、「まだこんなにある」と話していても、ちょっと前向きすぎて、先行きが心配になります。

しかし、ここからが、わたし、持論屋トーマスの持論の始まりです。

七分目から八分目であるにも関わらず、「もうこれしかない」と、捉えて、そこから、たゆまぬ努力を続ける、というのは、作家として、非常に前向きな熱いスピリットを感じ得ます。

或いは、もう二分目から一分目であるにも関わらず、「まだこんなにある」と、捉えて、ひたむきに執筆を重ねる、その姿には、熱い漢の魂のスピリッツを感じるところです。

もう少し、分かりやすく話します。

七分目くらいのときに、「もうこれしかない」と、捉えて、前向きに頑張るケースとしては、未来への不安や、この先の人生への先手の一歩を、常に打ち続けたい、順調に進んでいるときほど、不遇のときに備えておこう、という、経営者としての素養を感じます。

また、二分目くらいのときに、「まだこんなにある」と、捉えるケースとしては、追い込まれている日々の中で、それは、孤軍奮闘する日々かもわかりません、その日々の中で、まだまだ、こんなところで負けるわけにはいかない、ほんとうは自分だって分かっている、もうこれしか水が残されていないことくらい、だけど、こんなところで俺は負けられない、まだまだ時間はたっぷりあるじゃないか、という、松木安太郎さんにも通ずる熱いスポーツマンシップを感じます。

と、まぁ、そういう話です。

どういう話だよ、と、言われるかもわかりません。

いわゆる、普段の暮らしの中では、その状況を見て、適切な判断が求められる。

しかし、過酷な闘いの日々においては、敢えての逆張りで、自身のスピリッツを鼓舞して頑張ることも大切では、と、わたしは考えております。

まぁ、お互いよきコップの水ライフを。

それでは、また。

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