-文学の解釈について-
ある一定の文学作品、というのは、普通にただ字面だけを追いかけても、みえないものがあるように思います。
まずは、最初に、そのことを伝える、芥川賞作家であり、お笑い芸人、ピースの又吉直樹さんの動画をご紹介します。
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又吉直樹さんは、このシリーズで、インスタントフィクション、という簡易的なショートストーリーを、独自の解釈で語り聞かせます。
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文学というのは、作者の意図を、完璧に拾いあげるのは不可能でありますし、とはいえ、国語の授業であれば、こう答えるのが正解であろう、という解釈の一般論を探ることは、可能でありますが、それとて、本来は作者はそんなことなど露も考えていない、というケースは、多分にあるであろう、とわたしは考えています。
それは、歌や音楽、アートなどについても、深読みする必要のある作品もあるし、必要のない作品もあるかもしれません。
わたしは、そこまで、解釈のプロフェッショナルではないので、音楽にせよ、アートにせよ、本質的な解釈、という意味では、非常に浅はかな知識しか持ち合わせていないかもしれません。
否、正確には、わたしは、そうした知識を、プロフェッショナルには、持ち合わせていない、と自覚しております。
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その上で、今日は、「ことばとvol.1」から、マーサ・ナカムラさんの「帝都の墓 / 阿弥家の墓参り」と、「魚は銃をもてない」から、鷽月さつかさんの「結ぼれ」をとまを流の読み方で、読もうと思います。
作家ご本人さまや、関係者の方々が、不愉快な思いをなさらないことを、丁寧な言葉を心がけ、心より願っております。
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まずは、「帝都の墓 / 阿弥家の墓参り」。
こちらの物語は、小人となり墓参りをする家系に生まれた主人公と兄、両親の物語です。
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まず、最初に結論から話します。
わたしの解釈では、家業を継ぐことを悩んでいた主人公が、心を決めるまでの物語、と読むことがシンプルかな、と、
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兄、という人物は、後半に突然、姿を消します。
そのことに関しても、ごく一般的な文学的な解釈をするなら、主人公の中の、もう一人の自分、とも読めるし、素直に、兄は家庭を持ち家を出た、などと読むのが、平易な、シンプルな読み方かな、と。
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大ラスでは、母も父も、すっかり老け込んで、ぼーっとしているシーンがあり、そのことからも、時系列は、後半部分で一気に、先の時代に進んだ、と読むのが平易かと。
兄の代わりに現れた赤ん坊は、兄の置いていった子ども、もしくは、主人公の子ども、ではないか。
家業を継いだ主人公が、更に、次の世代にその家業を継いでもらうことを示唆して、物語は終わりを迎えます。
また、最後に、タイトル「帝都の墓 / 阿弥家の墓参り」というタイトルから、主人公は由緒ある家系の重圧を背負っているが故の葛藤の物語である、とも読むことができます。
或いは、その家業は「墓参り」である、というテーマにより、脈々と続いてきた祖先からの日々の暮らしを受け継いでいくこと、そのこと自体を表現している、という側面もあるかもわかりません。
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この辺りの読み方が、わたしの、とまを流の読み方となりました。
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ただ、そこに、ひと言を加えると、前半から中盤少しあとまでの、主人公と兄とのやり取りや、その墓参りの場面の丁寧な描き方が、わたしはとても好きで、この物語を何度も読んでいます。
仮に、こうした解釈が作者の意図しないものであったとしても、その本来の主題となる墓参りの仕事の丁寧な描写は、その部分の、その一つ一つの繊細な描写により、この作品は、その深みを現しているような気がします。
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この作品について、最後にひとつ、思ったこと、というか、気づいたことがありました。
それは、わたしは、作者の本来の意図に気づくことができていないのではないか、という思いです。
ほんとうは、もっと深いところに、この作品の本来の重厚なテーマが隠されているのかも、わかりません。
とはいえ、それとて、深読みすれば、わたしの、解釈の、逃げ口上かもしれませんが。
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続いて、「結ぼれ」。
こちらの作品は、この世界に張り巡らせられた空から垂れ下がるロープを渡り歩いて生活の基盤とする「ローピアン」という浮浪者のような生活に、あるとき、踏み込んでしまった会社員の主人公が、あるとき出会えたローピアンである友人と共に、ローピアンとしての暮らしを楽しむことを覚え、ラストには、また家族の理解から、本来の家庭に戻ってくる物語です。
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あんまり、安直に、物語を何かの比喩とすることには、抵抗はありますが、平易な、優等生的な読み方をすると、仕事に疲れた生真面目な会社員である主人公が、自由な暮らしをする友人と出会い、日々を楽しむことを覚え、ぼろぼろになるまで遊び歩いて、あるとき、家族からの支えにより、また元の暮らしへと戻るまでを描いているのかな、と。
これは、わたしの読み方、というより、どちらかというと、国語の授業的な読み方です。
最後に、タイトル「結ぼれ」というところを読みますと、日々の暮らしの小さな結ぼれを解いていく物語とも読めるし、出会えた友人とも小さなご縁を逆手に結ぼれと呼んでみる、とも読むことができるかと思います。
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わたし個人は、そのローピアンとしての暮らしの小さな日々の描写や、友人とのささやかな悦びが心地よく、また、世間や社会から、激しく中傷され、罵倒され、踏み潰され、虐げられるローピアンとしての暮らしの中に覗く、その友人との愉しみの中に、ふとこのわたしたちのロープに縛られているかのような日々の暮らしの救いを見ることができるし、そうした丁寧な日々の描写が好きで、わたしはくり返し読んでいます。
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この作品も、先ほどの作品と似たようなトーンがあり、解釈などは、あとづけのものですが、わたし個人は、どちらかというと、解釈がどうのは、さて置いて、日々のささやかな暮らしの描写が、どちらの作品も、とても美しくて、また堪らなくノスタルジーで、柔らかな心持ちとなり、そうした部分がそれぞれの作品の何よりも好きなところです。
わたし個人が、そうしたささやかな暮らしを描いている作品が好き、という傾向は、あるのかもしれません。
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ただ、今回は、あとづけの解釈を、とまを流に読んでみました。
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こうした解釈の自由というか、想像の自由みたいなものは、小説や文学作品の何よりの楽しみかな、と感じています。
それでは、また。
佳き文学ライフを。
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