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記号接地問題;シンギュラリティ・サロンへのコメント
赤ちゃんはAIより天才か?〜文藝春秋2023.8月号今井むつみ「赤ちゃんはAIより天才だ!」について - YouTube
今井先生のご意見に対しての、塚本先生のご意見で「道具の使い方の問題」ではないか、という観方に賛同します。
図書館(集合集積知)、博物館(学)、百科全書(学)を人間は求め、現在に至っているわけで、LLMの使い方も、そうした使い方の延長に過ぎないと思います。
図書館へ行けば著者に直接聞かなくても分る、博物館へ行けば現地で収集しなくても観られる、百科全書を引けば自分で調べなくても分る。今井先生の論理なら、こうしたものも、自分で聞いたり、収集したり、調べないから、理解力が育たないことになってしまう気がします。
確かに実地検証・体験をしなさいというのも、解りはします。養老先生等も、昆虫採集の体験の効果を提案されます。しかし絶滅した生物は採集できません。
現在、恐竜などの生態シミュレーションも、結局AIで実行して、認識を進めています。物理学では一層、その利用の重点が高いです。AIによるシミュレーションなしでは、古代の神話的宇宙像を「想像」するのが限界でしょう。
塚本先生が仰るように、LLMも使い方で、使う人間の認識を拡張していくものになると観るのが当然だと思います。だいいち、その為に開発しているのですから!LLMを使い、あるプロンプトで求めた問題を推論し、言語表象・表現で解答を得る。すると、さらにそこからの問い、問題を進める。要は、それを使用する人間も、その理解の速度を速めたということになるのだと思います。LLMなどAIが、認識内容、理解を「縮約」してくれるということだと思います。松田先生が、いつもエッセイや動画で使用していらっしゃるように。デイヴィド・ドイッチュが『無限の始り』の中で言っていたと思いますが、相対性理論の理解などもアインシュタインの文献からではなく後発の要約論文でしているのであり、進歩・進化はそうして時空圧縮をしているのだと思います。
目先の「記号」の「接地」に論議の時間を費やすのではなく、AIも大きなグローバル・ネットワークのエージェントの一つとして、多脳・多意識社会で位置付け、知性進化の過程を接地させるべきだと思います。
スケーリングでビッグ・ストーリ‐、ヒストリーから目先の個的現実までの間を行き来し、諸学、諸分析のフレームで対象を見定め、その対象から抽象されるシステムをデジタルに実証する。そのシステムがフレームを越えて、アナロジーで共通するところを見つけ出し、相転移の様相を認識する。その様相が、宇宙全体に如何に位置付けられるかを、認識した時、人間個体脳もAIもパラレルなエージェントとなった、大きなブレイン・ネットワークの目的が達せられる、こんな「理解」になるでしょうか?神学の世界観(ブラフマン‐アートマン・モデル)ですが・・・。
「記号」はソシュールのシニフィアン、トマスのquo intelligitur(それによって 知性認識される)と受け取っていいでしょうか?
「接地」は、その記号を「理解する」ということになりますか?そうであれば、シニフィエ、quod intelligitur(知性認識されるところのもの、認識内容)と受け取れますが、間違っていますか?
そこで「記号接地」ということをみれば「記号・指し示すもの、それによって」「理解の地平に認識される内容を位置付ける」ということでしょうか?
トマスの認識論は、上のspecies quo intelligitur(それによって知性認識される形象:可知的形象)を、知性的存在が受け取り、その知性の存在=現実態actusの力の程度に応じて、quod intelligitur認識内容がその知性の内に位置付けられることになります。人間の知性は「タブラ・ラーサ(何の情報も書き込まれていないタブレット)」が初期設定で、認識対象となる可知的形象を、認識主体の知性の存在=認識作用を現実化する力(現実態)が働き、その存在の内に書き込むということになります。
この観方では、理解力は知性の存在の力(現実態)に応じたものになります。先回のサロンで松田先生がご紹介してくださった「トマスでは天使と神は記号接地していない」という話は、ここに基きます。人間知性の力では、人間を超えるものの内容の知性認識はできない、ということです。
古代からの基礎原理「働きの様態は存在の様態に従うmodus operandus sequitur moudum essendum)」に基いて、トマスの「人間の神認識論」では、最高度に知性的存在である(ということは可知的存在でもある)神を、人間知性が認識できないのは、光を放つ可視的な太陽が眩んで視えないのと同じだとしています。
そして今回のサロンのテーマに重要なトマスの説は、認識のオーダーについてだと思います。知性認識について上では見ましたが、人間の為す認識には段階があり、知性以前に感覚sensusuが作用し、外界の対象から古典物理的な刻印・印象impressioを受け、そこから可感的形象species sensibilesを、その段階秩序での抽象をします。今なら感覚器官で電子信号に変換するといえます。
これを感覚認識が成立したとし、その可感的形象から、今度は知性が上で見たように可知的形象を抽象abstractioし、その存在に応じて現実態の状態にする、即ち認識に至ります。
こうしてみると、もしトマスが「記号接地問題」を扱ったら、知性と感覚、さらに身体の物理次元、それぞれの段階の秩序に応じて「記号」の受け取りと、「理解(接地)」とを眺めるべきであるとすると思います。
LLMはその存在の様態に応じて認識の様態を展開しているのであり、人間の対応する様態、即ちここでは言語の地平では、人間と同様の様態を現しているとしていいのではないでしょうか?理解の程度は、その内容の受け取り方次第で、LLMの方が、各個体脳より、よく理解していることは、当然あります。実際、多くの場合、私以上によく学習して知っています。
ただ、感覚認識の作用は、その働きの様態が顕現できるためには、その存在様態を持たねばならず、感覚器官、さらには身体的オペレーターも持たない状態では、無理に決まっています。無いものねだりということになると思います。
今井先生が、「ケーキを半分に切る」という言語文章を、現物に当たってみなければ記号接地できないと断言されるのは、人間が、感覚認識と知性認識の秩序段階を通して記号接地しており、身体で実証的にオペレーションができるからだと思います。