心は存在しない 悪は存在しない
内容が本の途中だということで、全体が分からず申し上げて恐縮ですが、「心は存在しない」という表象は、「心を実体的に見た場合、その実体的観点では存在しない」ということを仰っているように思いますが、違うでしょうか? ネオプラトニズムのプロティノスの『エネアデス』で論じ、アウグスティヌスがその影響を受けて、マニ教から回心した話は有名です。その話に、通じる気がします。
マニ教の善悪二元論は、悪も実体的に観てしまって、二項対立の神話的世界観の論理から抜け出せないというのを、悪は非存在であり、存在するというエネルゲイア現実態の善性を、欠如している、即ち欠如態であるということを認識し、そこから脱したという話です。
盲目は視覚にとっては「悪い事」ですが、視覚の欠如という事態であり、何もそこに悪が存在するわけではありません。しかし、悪い事が、抽象されシンボライズされてくると、次第に悪という概念に、実体性を付与し、人間人格化、即ちpersonificationをしてしまいがちになるのが、人間の観念だとされます。解釈学のP.リクールが『悪の解釈学』で解説している内容は、この詳細になると思います。悪魔という存在を想定しまうのもそこからで、何かしら悪いと判断される事柄・事態が連続すると、悪魔がとり憑いた、祟りだ、などとしてしまうのが、人間の傾向性だということになると思います。 心も、おなじで、霊魂と言った実体性を追い求めてしまう傾向性があり、その表象が神話的表象となり、元々の神概念の起源である人間の共同体リーダー、家父長・君主・王・支配者・制御管理者の様態を重ねていきます。すると、その霊魂が死後さえ残るように表彰され、始皇帝陵だのピラミッドだの古墳だのという、実態的観念の実像化を展開してきたと思います。そのうち、個人も石に名を刻んで、永続性の象徴である墓を作りました。
こうした現象・事態の実体化、表象化が、「心」という現象作用になされたところを、脳や身体、社会、自然現象に還元して分析し、そうした作用の交点にある事態を、心と表現しているとなさったのではないでしょうか?