混交し混沌とした神概念
松田語録:アルトマン、TimesのCEO of the Year - YouTube
ユダヤ‐反ユダヤ主義の歴史を振り返るとき、ナチのホロコースト以降、イスラエル建国からの説明が多いのですが、古代期の話も前提に理解する方が良いと思います。この動画に直接関係ないですが、社会宗教としてのユダヤ・キリスト教を理解するために、貼り付けさせてください。
旧い契約から新しい契約へ
現在、この現代においてさえ、各地で戦争が続いている。人間共同体社会の制度をめぐる争いだが、生産を「共産か資本か」、分配を「社会か個人自由か」、何れの主義で為すがよいかで殺し合う。もっと単純に古代から続く「地上の覇権」争いを「聖戦」、神の名の下にという正当化をして「敵」を殺す。
紀元前550年以前の頃、バビロニアで捕囚の民となっていたユダヤの民が、自分達の民族アイデンティティを保持するために編集したとされる『聖書(キリスト教の成立後は旧約とされる)』には、『サムエル記』として編集された中に「ダビデ物語」がある。これは『創世記』の創世神話に続く、遊牧部族から統一ユダヤ民族形成(農耕文化から得た12という象徴数を使った12部族物語から民族統一のヤーウェ=一部族の族長神名に偏らない「在る者」とされた神名で、農耕民が耕作拡大してきたカナンの地を奪取する為、部族間契約を締結した「十戒」を掲げた物語)の記述の後に置かれている。 「ダビデ物語」のハイライトは、ペリシテ(パレスチナ)の軍隊の英雄ゴリアテを倒すシーンであるが、剣や槍、鎧を脱ぎ捨て、石を拾いゴリアテに当てて倒したと記される。そしてダビデの口から、神は武器を使わず敵を倒し、この戦いが聖なる戦いであることを示したと言わせる。
遊牧民が持っていた投石器は、当時その地域で多くいた狼やライオンを追い払うために極めて有効な強力なものであった。如何にペリシテ軍が鉄の文化圏にあったらしいとしても、飛び道具は有利であったはずである。そしてこの土地の「奪還」戦争は、農耕民族ペリシテから観れば侵略戦争である。それを「ダビデ物語」は正当化して「聖戦」とするのである。
総じて『旧約』は、こうしたユダヤ民族の歴史をヤーウェという神の下で、地上の覇権をめぐる歴史として描いている。
『新約』のメッセージは、それを乗越えようとするストラテジーの下に描かれている。恐らくイエス=ヨシュア=日本なら太郎という一般的名前で呼ばれる活動家が、紀元1世紀のローマの傀儡政権であったユダヤにおいて、様々なイドラ的バイアスで固着し、人々が困窮していた状況に、そうした地上の覇権に基く認識を捨てよ、と主張した。初期には既に福祉的活動を為していた洗礼者ヨハネと活動を共にしたが、ヨハネ共同体へ当局からの圧力がかからぬように、独立活動をした。これに当時のガリラヤにいた反体制的「熱心党」のメンバーも加わり、宣教、即ちコミュニケーション=言葉による共同体の一致を説き回った。
ともかく地上の覇権争いは止め、赦し合って和解し、平和を得よう。自分達の土地、自分達の労働による報酬という観方を捨てよう。野の百合、空の鳥を見れば分かるように、人間の所有や労働によって生活しているのではない。その下には天の父の恵がある。それに気付くべきである!明日は明日が考える(摂理)!ブドウ畑での労働対価についての話も、1日1デナリオン、皆、自分の労働によって得たものとせず、生きるに必要な恵みとして、天の父なる「主人」から受ければよいという、社会分配を説いた。
こうしたメッセージが、新しい契約として告げ知らされたと、理解できないでしょうか?
そしてAGI・ASIの発展の問題を考究する立場に出てくる「神概念」は、こうした社会宗教の側面とは本来異なり、起源はもっと古く、「自然神学」として展開した中でのものだと思います。神話時代から語られ、理性意識の時代・中軸時代(ギュスドルフ・ヤスパース)と言われる時代にプラトンのイデア、アリストテレスのノエシス・ノエセオスに表現され、ウパニッシャッドではブラフマン‐アートマン・モデルで表象され、中世アラビアで普遍的単一知性説も現れ、ダーウィニズムの根底を流れ、現代物理学のシュレーディンガーの知性観にもなり、常にα~Ωを眺める視座の上に現れる「神概念」だと思います。 (それは新約『ヨハネ福音』ではないのか、と思われると思いますが、『ヨハネ福音』は明らかに新約の中では後代の文書で、ユダヤ社会内の神概念の範囲を超えていると言えると思います。勿論、思想・文化混交していくローマ帝国、神聖ローマ帝国内では、キリスト教文化の神概念になってしまいますが。)
つまりこれは、自然神学として広く世界中で眺め考察されてきた人間とはどこから来てどこに行くのか、またその知性とは何であるのかという問題であり、キリスト教内でも「自然と恩寵」としての神の似姿問題は「自然神学論争」としてずっと論争されてきています。
従って、松田先生の仰る映画『クリエーター』解釈は、「自然流の立場と人間中心主義との闘争」を「東洋と欧米の対比」とされたということだと思いますが、どうでしょうか?