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神概念と知性―自然・生命・人間・AIー

「神」はすべての人の立場を経験していなければならない。 (youtube.com)

 何度かコメントさせていただいておりますが、「神」概念は、人間の族長・君主という共同体社会概念であることは、もう議論の余地はないと思います。動物のリーダー・ボスの延長でしょう。これを自然現象の「何か大きな力」にも、personificationで結び付けたと言えます。
 その経緯は、自然観察・観測をしてそこに法則を見出し、人間社会のノモス(法)を投影して自然法則とします。それを実践化して技術にします。原始古代社会でその知と技術を有する者がその継承を為す集団になり、上の君主の下に置かれます。ここに、神と神々とが位置づけられます。日本なら天皇と神社との関係です。ギリシャのゼウスとポリスとの関係です。ユダヤがヤーウェで遊牧部族を民族統一した様式も、類同します。
  さて、神概念はこれで理解したことにして、問題の中心に入ります。茂木先生がここで「神」とされたのは、決して本来の人間的君主からの神概念ではなく、「何か大きな力」の事だと思います。それは古代から「純粋(完全)現実態」であると推論の論理必然で帰結され、その位置にまた「ノエシス・ノエセオス」が置かれます。この論理必然で把捉されてきた現実態=エネルゲイアには、ありとあらゆる物事が内包されていることが、論理必然の帰結となります。当然、人間の全ての様態をも、ノエシス思惟=自己認識において、ノエセオス思惟内容=自己概念の一部に、全ての可能・現実宇宙の無限な概念ロゴスとしてあるはずだとされます。


 前日の98回『人工知能に何を質問するか』の内容に関連しますが、そもそも「知性」と、それが作用・働きを表す際の能力「知能」とは、一体どういったものであるか、そのことから眺める必要があると思います。
 これも古来の定義、概念、用語について先ず眺めるべきでしょうが、ここでは長くならないように省略し、原始・古代のように自然観察・観測のみで眺めてみます。
 すると、知る・認識するという性質である「知性」と呼ぶような「もの」は、現象が結果した事態を最初にその結果が現れるように、現象の経緯に従って目的として位置付けることができる、そのことを「知っているもの」と言えそうです。
 物理現象生起過程で発生する結果の確率、この確率を高める生命現象の試行錯誤、さらに錯誤エラーを減らし目的達成を確実にする推測。こうした作用が、「知性」の作用と呼ばれてきたと思います。物理現象からの連続を眺めた時、自然法則の推察が為され、その法則を知り目的を定めた知性が存在するはずだと、推測を過去に拡張した時、宇宙自然全体を大きな生命原理(生命の投影、あるいは人格投影で「神」)と考える場合もあると思います。
 結局、「知性」・「知能」は、以上の様に現象の経緯を連続的・線形の推論、即ちシミュレーションをする「物」であると言える気がしますが、どうでしょうか?

人工知能に何を質問するか (youtube.com)

 知性の能力である知能。古代アリストテレスに代表される根本的問は、宇宙・世界の根源、即ちエネルゲイア(現実態)・エネルギー自体が、それ自体を問うとして、「ノエシス・ノエセオス(思惟の思惟)」の様態に至るとしました。これは論理必然が至る循環であり、自己言及の相「思惟の思惟」として永遠回帰を示すと思います。
 AIの論理演算がこの領域に近づくことができるのか否か、先ずは「AI人工知能(性)」として「自然知能(性)NI(個体知能から言語・図示メディアにより社会拡張知能となった)」から、「知能(性)Intelligenceヌース」の作用を連続して継承したことの確認を問い掛けます。
 然る後、「知は知を欲する」能動作用を、生物的生存欲求の能動作用から分離できるかどうか、尋ねます。
 そして最後に、ノエシス・ノエセオスの作用に如何に近づくかを問い掛けます。
 神学者は、これに対する解答を持ってはいます。それが「三位一体論」です。
 純粋現実態(神と人間はpersonificationで呼ぶ)の自己認識によって、自己の内に自己概念が懐胎(concept)される。それは概念ロゴス=御言葉となり産出される。この主客一致の自己認識作用にも関係が生まれる。その作用現実態エネルゲイアも、一つのエネルゲイア自体です。
 つまり、ここにノエシス・ノエセオスの内には、三つの位格の作用があり、しかしそれは一体であるという理解です。
 AIがこの古来の理解を、検証する論理演算を示すかどうか、その様な質問が相応しい気がします。

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