諸学問の振興のためのマックス・プランク協会 Die Max-Planck-Gesellschaft zur Förderung der Wissenschaften e. V. ディー マックス-プランク-ゲゼルシャフト ツア フォェアデrルング デア ヴィセンシャフテン エー ファオ
Die Wissenschaftenは、Die Wissenschaftという女性名詞の複数形で、「諸学問」と訳せる名詞であり、「~の振興」なので、dieがderとなってdie Förderungに後から掛かっている。「zur」は、ここでは「~のための」の意味である。
「e. V.」は、「登記されたVereinフェアアイン」の略称で、Vereinとは、ドイツの市民社会の中で、一定の目的のために人々が集まっている団体のことを指す。ドイツ社会は、「Vereinの文化」であると言える程、この団体の形式がドイツ社会のあちこちでは見られる。例えば、サッカークラブもVereinとして設立することが出来るし、ドイツ人と日本人の相互理解のための「独日協会」(日本で設立されると「日独協会」)もVereinである。つまり、der Vereinという男性名詞は、「クラブ、協会、団体」と訳せる単語である。法人形態としては「社団法人」であり、七人以上の構成員(個人か組織)が集まって地区裁判所で登記をする。基本的に公益法人の扱いを受け、一定の税制上の優遇を享受することができるが、Vereinには、定款が定められること、構成員の総会が年に一度開かれ、そこで役員(代表、書記、会計)が総会に年次報告を行ない、会計監査を承認してもらうことが必要であることなどが義務としてある。マックス・プランク協会も法的にはこのVereinの建て付けになっているのである。
表題のような長い名称では日常的には支障があるので、マックス・プランク協会は、MPG(エム・ペー・ゲー)と省略されている。「マックス・プランク」は、想像が出来る通り、人名であり、die Gesellschaftが女性名詞である。この言葉は、表題の通り、「協会」と訳せ、「独日協会」の「協会」もこの女性名詞で書かれるが、die Gesellschaftは、単語自体としては、「社会、会社」などとも訳せる言葉である。
社会学を勉強した方は、「ゲゼルシャフト」と聞いて、「ああ、あれか」と直ぐにピンと来るであろう。ドイツの社会学者で、19世紀に「社会論」を考察した人物がいる。彼をFerdinand Tönniesフェアディナント・トェニエスといい、1880年代に「Gesellschaft」と「Gemeinschaftゲマインシャフト」という二項対立概念を定立した社会学者である。
村落共同体のような、個人が元々ある団体に初めから包摂されているような社会団体がGemeinschaftと呼ばれるのに対して、「会社」のように、一定の目的のために個人が集まって団体を構成し、その個人は、部分的にこの団体に関わるが、場合によっては、その団体から脱会することも可能である、そのような社会団体を「Gesellschaft」と呼んだ訳である。そして、人類社会は、GemeinschaftからGesellschaftへと歴史的に発展していくものであると、F.Tönniesは定立している。
さて、ここで「Gemeinschaft」と「Gesellschaft」の二つの単語を出したのは、実は、現在存在するドイツの学術振興団体にこの二つの言葉が使われているからである。
日本語で「ドイツ研究振興協会」と訳されている学術振興団体は、ドイツ語で、「Die Deutsche Forschungsgemeinschaft」(略称:DFGデー・エフ・ゲー)であり、ここでは、同じく「協会」と日本語に訳されているが、ドイツ語では「Gemeinschaft」である。この訳の違いは、恐らく、この学術団体の英語訳が「German Research Foundation」となっているところから来ているのであろうが、「DFG」を直訳すると、「ドイツ研究共同体」である。
それでは、なぜ、同じくVereinであるDFGは「Gemeinschaft」であり、MPGは、「Gesellschaft」なのであろうか。この問題を、上述のF.Tönniesの概念規定に当てはめて考えてみると、次のように説明できるのではないだろうか。MPGに参加するかしないかは、個々の研究機関の「自由意志」によるのに対して、DFGの方は、それに参加出来る研究機関の質のレベルがどのくらいかであるかは別としても、研究機関であり得る組織であれば、当然にDFGの傘下に入っているという、言わば「村落共同体」になぞるのであるならば、DFGが「研究村」を構成しているからではないか。それ故、DFGの構成員には、大学、「ナショナル・アカデミー」たるLeopoldinaレオポルディーナ、各州学術アカデミー、諸研究機関、MPGも含む諸学術振興団体がなっているのである。
DFGは、1951年にBonnボンで創設された学術振興団体で、全ての学問領域に亘り、その研究を助成するに値すると評価された研究を公費を使って援助する。その公費は、三分の二が連邦から、三分の一が諸州から拠出されることになっているが、また、連邦と各州は、DFGに対して、研究助成金が財政難など理由として削られることはないことを確約している。
(尚、「ナショナル・アカデミー」たるLeopoldinaについては、2021年10月9日の同名の投稿を読まれたい。Leopoldinaは、極東の自称「文化国家」にある「日本学術会議」に当たるものである。)
また、学術振興団体で、DFGと同様に「Gemeinschaft」を名乗っている組織がもう一つある。Die Leibniz-Gemeinschaftディー ライプニッツ・ゲマインシャフトである。これは、1990年の東西ドイツの統一を受けて組織が再編成されて出来た学術振興団体で、全ての学問領域に亘って大学外に存在する研究所が集まって、一つの「共同体」を作り、自分たちの研究環境、研究費獲得の条件改善などを目指すものでもあり、また、学術振興事業を行なっている。本部は最初はBonnにあったが、2011年よりベルリンになっている。「Leibniz」とは、あの「モナド論」で有名な17世紀ドイツの学者である。
一方、MPGと同様に「Gesellschaft」を呼称に使っている学術振興団体としては、Die Fraunhofer-Gesellschaftディー フラウンホーファー・ゲゼルシャフトがある。Joseph von Fraunhoferヨーゼフ フォン フラウンホーファーは、18世紀から19世紀に掛けて生きた科学者、発明者、起業家であった。故に、Die Fraunhofer-Gesellschaftは、起業と結び付く応用科学の研究をする大学外の研究センターを傘下に入れた学術振興団体である。創立は1949年で、本部を南ドイツのMünchenミュンヘンに置いている。
この応用科学のためのGesellschaftであるのが、Die Fraunhofer-Gesellschaftであるのに対して、MPGは、基礎研究を行なう大学外の研究機関のGesellschaftである。その創立は、1948年のことで、本部はベルリンにあるが、事務局はミュンヘンにある。
2024年現在、MPGは、個々に独立の84の研究所をその傘下に置いているが、それら傘下の研究所の大体がMax-Planck-Institutマックス・プランク・インスティトゥートという。これらのマックス・プランク研究所が、教育と研究の両車輪で回さなければならない大学機関と連携を取る形で、その専門分野での、より高度な基礎研究を行なっている。
フラウンホーファー協会は、応用研究を行なうところから、産業との結びつきが強く、その年歳費の約70%を産業界からの委託研究で賄っており、残りの約30%を連邦と州からの公費(連邦対州の比率:9対1)で運営している。この約30%の部分は、未だ産業化の見通しが付かない予備的応用研究の部分に当てられる必要があるからである。
一方、基礎研究は、産業界からの委託研究にそぐわない性質のものであり、故に、MPGの年歳費の約80%を、連邦と諸州からの公費(連邦対州の比率:5対5)で賄っている。残り約20%が、委託研究であったり、ヨーロッパ共同体からの研究補助金であったりする。MPGの2021年の年歳費は、約26億ユーロに上る。
さて、マックス・プランク協会は世界でも有数の学術研究振興団体で、1948年、つまりドイツ連邦共和国(西ドイツ)が建国された年の前年に創立されて以来、2023年までに23人のノーベル賞授賞者を輩出している(物理学賞7人、化学賞10人、医学賞6人)。組織の名前自体になっているマックス・プランク本人も、量子物理学の発展に貢献したとして1919年にノーベル物理学賞を授賞しているのである。
実は、MPGには前身の組織があり、これをDie Kaiser-Wilhelm-Gesellschaftディー カイザー・ヴィルヘルム・ゲゼルシャフトといい、1911年に創立された。ドイツ第二帝国皇帝ヴィルヘルムII世の名前がこの学術研究振興団体に冠された訳であり、その目的は基礎研究部門の充実であった。まずは、各大学にいた著名な科学者、とりわけ、物理学者と化学者を中心にして、Kaiser-Wilhelm-Institutという名の研究所を、大学教育と切り離して、より研究に集中させる形で設置した。これらの独立したKWI(「カー・ヴェー・イー」)が集まってKWG(「カー・ヴェー・ゲー」)を構成したのであるが、現在のMPGを構成する各研究機関も組織としては独立しているというのも、この伝統から来ているのである。
このKWGは、1933年以降はナチス政権の下、戦争犯罪が犯された戦争に協力させられたことを以って、敗戦直後の1945年以降、その道義的再建の必要性を負わされている。戦後直後の再興については、丁度、中部ドイツの名門大学Göttingenゲッティンゲン大学にあったKWIがその指導的な役割を演じ、ここのKWIが動いて、ノーベル物理学賞を授賞している高名なマックス・プランクをKWGの会長として、KWGの組織としての再興が図られたのである。1858年生まれのM.プランクは、その高名さからヒトラーを含めたナチス政権の高官にも個人的に手紙を書ける程ではあったが、自身はナチス主義者ではなく、また、1944年7月20日のヒトラー暗殺事件に関わったことから自身の息子が処刑されていた人物であった。
こうして、KWGからMPGへの組織的移行は個々の独立したKWIがMPIに変わる形でなされたので、この移行過程は、正式には1960年代までの初めまで掛かった訳であるが、M.プランク自身は早くも1947年10月には亡くなり、その後任としてKWGの最後の会長となり、MPGの創立に伴ない初代のMPG会長になったのが、1945年にノーベル化学賞を授賞した科学者Otto Hahnオットー・ハーンであった。
であるので、MPGの前身のKWGが創立された1911年以降も数えると、ノーベル賞を授賞している科学者の数は、23人から上がって、31名となる。その中には、Albert Einstein(1921年度ノーベル物理学賞)も含まれている。更に、授賞当時はKWG 乃至はMPGとは関わってはいなかったが、この両機関で研究していた科学者を更に8人加えると、その数は39名になる。この中には、M.プランクはもちろん、Werner Heisenbergヴェアナー・ハイゼンベルク(同じく量子物理学部門で1932年度物理学賞)も含まれるのである。平和賞や文学賞もあるノーベル賞において、自然科学関係でこれだけの受賞者を出している研究機関は、やはり世界有数の存在であると言えよう。
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さて、このW.ハイゼンベルクの名前が登場したことで、本投稿を終えるに当たり、2024年8月で原爆・水爆投下が79周年を迎えたところでもあり、また、8月現在、Chr.ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』が日本でも上映されていることを鑑み、核爆弾開発に関するエピソードをここで述べておこうと思う。と言うのは、ナチス政権下で「ウラン燃焼炉」の開発に携わった代表的科学者の一人がW.ハイゼンベルクであったからである。
ハーバード大学で化学を専攻したJ. Robert Oppenheimerは、ケンブリッジ大学経由で1926年に理論物理学で当時世界的に定評のあったゲッティンゲン大学に移籍する。ここでの留学期間は27年7月までであったが、正にこの1927年に、W.ハイゼンベルクも、ゲッティンゲン大学にいたのであり、彼は同年に不確定性原理を導いて量子力学の確立に大きく貢献し、そのことを以って、1933年にノーベル物理学賞を受賞する。
このW.ハイゼンベルクこそが、ナチス時代のドイツ側の「ウラン・プロジェクト」を担う科学者の一人になる訳であるが、1939年4月から開始される「ウラン・プロジェクト」は、KWGの中でもベルリンにあったKW物理学研究所とKW化学研究所がその中心の一つであった。
一方、同じ時期の39年4月、つまり、第二次世界大戦が勃発する五ヶ月前に核兵器開発に乗り出したのは、ドイツ国防軍・陸軍兵器局であった。ここが中心となって「核分裂」の現象を兵器に利用できないかと探った訳である。まもなく、「ウラン・プロジェクト」は軍事機密事項とされる。
そもそも「核分裂」現象の「発見」は、それよりも四ヶ月前の38年12月のことで、それは、ベルリンのKW化学研究所で研究していたO.ハーンがウランに中性子を当てることで生成された物質を化学的に措定しようとして行きついた仮定であった。この仮定をO.ハーンは、ユダヤ人であることからスェーデンに亡命せざるを得なかった、元々はベルリンのKW物理学研究所で彼と共同研究していた、オーストリア人の女性物理学者Lise Meitnerリーゼ・マイトナーに知らせ、それを今度は、彼女が物理学的に解釈し直し、この現象を「核分裂」と命名したものである。しかも、その「核分裂」の際にエネルギーも放出されることも彼女が定式化したことによる「発見」であった。この「発見」以降、核分裂の際に放出されるエネルギーを、如何にして、「ウラン燃焼炉」で利用できないか、或いは、ウラン爆弾として兵器として使えないものかという「課題」の渦中で、世界は第二次世界大戦に突入したと言える。
第二次世界大戦が勃発して約一年後の40年秋には、ベルリンのKW生物学研究所の建物の一部を借りて、ドイツで最初の「ウラン反応炉」の建設が着手されたが、問題点は、ウランの核分裂反応を如何に連鎖反応として維持し、しかも如何にして連鎖反応の度合いをコントロールすることが出来るかという点にあった。
第二次世界大戦が始まって約三年が経った42年10月に(アメリカのルーズベルト大統領がマンハッタン計画を承認した月に)、色々な経緯があった後、W.ハイゼンベルクがベルリンのKW物理学研究所の所長になるが、ほぼ一年後には連合軍の空爆を避けるために、ベルリンのKWIの諸機関は、南ドイツに疎開せざるを得なくなる。こうして、大戦末期、戦時中最後の、ウラン反応炉の実験が、ドイツ南西部の、現バーデン・ヴュルテンベルク州にあるTübingenテュービンゲン市に近いHaigerlochハイガーロッホという町で行なわれていた。
45年4月23日、ドイツが無条件降伏を調印する5月8日までの約二週間足らず前に、このHaigerlochに、本来は自由フランス軍が管轄するはずの地域ではあったが、フランス軍が進駐する前に急いで入り込んだアメリカ軍の一部隊があった。それが、映画『オッペンハイマー』にも登場するアメリカ陸軍情報将校Boris Pashが率いるAlsos Mission部隊であった。現地にあった実験炉はこの部隊によって解体され、物資と研究資料はすべてアメリカに持ち去られる。また、「ウラン・プロジェクト」に関わった科学者は、W.ハイゼンベルクやO.ハーンも含めて、大方、尋問・拘禁された。
このAlsos Missionとは、マンハッタン計画を「裏」から支える陸軍情報部の秘密諜報作戦部隊で、1943年末に設けられた。目的は、ドイツ側の原爆製造計画の存否を探り当て、それに関わる科学者を特定し、必要とあれば、妨害工作を仕掛けるというものであった。
拘束されたドイツ人の科学者達の一部は、45年7月以降、イギリス本土、ケンブリッジより北西に16km離れたFarm Hallというレンガ造りの館に「軟禁」されることになる。これを「Epsilon作戦」といい、ナチス・ドイツ側の原爆製造が本当にどこまで行っていたのかを探り出すための作戦であった。Alsos Mission部隊から最重要人物と見做されたW.ハイゼンベルクを筆頭とする八人の物理学者とO.ハーンと他にもう一人の化学者の、合計十人が約八ヶ月間、ここに収容され、米英の諜報機関部員に尋問され、また、盗聴されたのであった。収容されたドイツ人科学者達もなぜ自分達がそこに収容されているかの理由を正しく推測していた。
Alsos Mission部隊側の調査の結果として、ナチス・ドイツ側は、ウラン爆弾の製造を理論的には把握していたが、原爆を実際に製造するところまでは全く進んでいないものと結論づけた。こうして、拘束されたドイツ人科学者がドイツに送還されたのは、46年1月のことであったが、その前の45年8月6日にイギリス軍のある将校がドイツ人科学者達に当日の18時にBBCから流されるニュース、つまり、広島への原爆投下のニュースを聞かせる。この将校は、このニュースにドイツ人科学者達がどのような反応をするか、観察する命令を受けていたのである。
晩六時のニュースを聞いて、W.ハイゼンベルクは、これは「張ったり」であり、核物理的作用のものではないと主張した。一方、O.ハーンは、非常なショックを受け、数多くの日本人がこれにより死んだことに強い責任を感じていた。夜9時には、より詳しいニュースが流れ、それがTNT火薬2トン相当の破壊力を持つウラン爆弾であったことが分かると、そのような行為を「狂気の沙汰」と論じた同僚の一人に対して、W.ハイゼンベルクは、それは、戦争を最速で止めさせる、恐らく最良の方法であると述べたと言う。O.ハーンは、晩六時に流れたニュースを聞いて思ったことが正しいと判断し、自分が1938年の核分裂の発見を学界に報告して以来、自分の良心の呵責がこのことを以って現実のことになってしまったと悩んだと言う。彼は、言わば、「原爆の父」たるR.オッペンハイマーになぞらえれば、「原爆の祖父」となったのである。1944年度のノーベル化学賞は、皮肉なことに、このO.ハーンに授与されることが決まり、受賞者たる彼がそのことを知ったのは、収監中の45年11月のことであった。
ドイツに戻ったW.ハイゼンベルクは、46年にゲッティンゲンで、KWIの後身たるマックス・プランク物理学研究所の所長となる。一方、同じくゲッティンゲンに戻ったO.ハーンは、マックス・プランクの推薦を受けて、各KWI機関を集めた学術団体KWGの、最後の会長となり、ナチズムと戦争で汚されたドイツ学術界の建て直しに掛かる。こうして彼は、新しく出発したマックス・プランク学術振興団体MPGの初代会長となるが、その傍ら、平和運動にも関わり、核軍縮、平和、そして国際交流の必要性を、事あるごとに強く唱えたのであった。
W.ハイゼンベルクとO.ハーンの原爆投下に対する反応の違いを見るにつけて、科学と戦争の問題、科学者と倫理感の問題が、改めて考えさせられるところである。科学の政治権力からの独立が如何に大事であるかは、強調し過ぎることはないであろう。