「ウルシもの」 Urushi ウルシ 

 読んで、或いは、聞いてすぐに、これは元は日本語であると分かる単語である。日本であれば、岩波国語辞典に当たる、ドイツ語の「国語」辞典が、Dudenドゥーデンであるが、この単語はこの辞書には未だ採録されていない言葉で、しかも、使用されているケースを見ると、定冠詞さえも付いていないのである。

 Kimonoも元は日本語の言葉であるが、どういう訳か、der Kimonoと男性名詞になっている。ドイツ語における外来語名詞には、その意味に対応するドイツ語の単語の定冠詞が当てられるのが普通である。

 発音としては、まず、[u] の母音に気を付けたい。日本語の「ウ」とは異なり、しっかり唇を丸くつぼめて発音する。しかも、これが続けて二回出てきており、二つの [u] の間に挟まった [r] 音は、口蓋垂を振るわせて発音したいものである。「shi」の綴り字は、ドイツ語的には「schi」と綴るところであるが、発音としては同音である。

 Urushiを表題のように「ウルシもの」と訳したのは、「ウルシ」とだけにした場合、これが植物名の表示になるからである。ウィキペディアには、「Urushi」という見出し語があり、その定義を訳すと、以下のようになる:

 「Urushiとは、自然の塗料(チャイナ・ラッカー)に対する名称で、また、伝統的な日本の美術工芸の、日本の漆工芸を指す。」

 という訳で、Urushiは、単にウルシの木から採れた液体「漆」を意味するだけではなく、漆を塗る工程を、更にはその工程を経て、出来上がった漆工品も指すのである。それで、「Urushi」を表題のように「ウルシもの」と訳した訳(わけ)である。尚、漆が塗料たりうる本来の物質を「ウルシオールUrushiol」と1906年に命名した科学者が日本人であり、日本国内でウルシについてよく研究が行なわれていたことから、日本語に由来する世界共通の「漆」用語が多数あると言われる。このことからも「Urushi」という単語がドイツ語の中にそのまま入ったことも肯ける。

 さて、Urushiが「ウルシもの」としてドイツ語で通用することは、英語における「japan」と同様なもので、英語圏では、「japan」というと、日本製のみならず漆工芸品全般を指すと言う。また、「japaning」というと、日本製を代表とするアジア漆工品に似せて漆製品を製作することを言うそうである。この「japan」の特殊な意味合いは、中国製のみならず、磁器一般を「china」と呼ぶのと同様である。

 植物名としての「ウルシ」は、ウィキペディアによると、『紅葉する葉の美しさから「うるわしの木」と言ったのがウルシになったという説がある』と言われているが、このウルシ科ウルシ属の落葉低木の学名は、Toxicodendron vernicifluumである。

 「toxico」が「毒」を、「dendron」が「木」を意味して、ウルシとは、「毒の木」であり、なるほど、樹液に接触すると、アレルギー反応が出て、皮膚がかぶれる症状が出る。また、「-fluum」が何か分からないが、「vernici」は、ワニスと関係があり、この木の樹液が「ラッカー」として使えることを示している。故に、ウルシの木は、英語では「Lacquer tree」と呼ばれている。因みに、「ワニス」という外来語は、ウィキペディアによると、元々はオランダ語の「Vernis」から来ており、この言葉が日本語に入った際に「ワニス」と訛り、これが更に短縮されて「ニス」となった言葉である。ドイツ語では、der Firnisフィアニスと男性名詞の言葉になり、ドイツ語とオランダ語が言語的に如何に近いかが分かる言葉でもある。der Firnisbaumがドイツ語で「ウルシの木」である。

 アジアからの「漆工品」が英語圏で「japan」と呼ばれるほど、日本からの漆工品はヨーロッパ人に「愛でられた」ということになるであろうが、フランス大革命の「嵐」の中、断頭台の露と消えた、あのマリー・アントワネット(1775-1793)も日本製の漆工芸品をコレクションしていたと言う。彼女の母親であるMaria Theresiaマリア・テレジア(1717-1780)は、神聖ローマ帝国の女帝であり、この母親もまた日本製漆工品のコレクターであったとのことである。蒔絵と螺鈿で加飾された漆工芸品は、ロココ芸術のセンスに合ったのであろう。蒔絵は、漆工品に欠かせない加飾の技法の一つであるが、メキシコでは、メキシカン・スパニッシュでメキシコ製漆器のことを「Maque」といい、これは日本語の蒔絵(Makie)が語源となっていると言う。このことは、日本の漆工品が、南蛮貿易の一つのルートとして、マニラ経由でメキシコにまで輸出されていたことの言語的証左である。

 東北の仙台藩藩主伊達政宗の命令を受け、当時のローマまで行って、ローマ教皇とも謁見したSamurai支倉常長(はぜくら つねなが、1571-1622)は、正にこのルートを使ってメキシコまで行き、そこから更に大西洋を越えて、スペインへ向かい、スペインからローマまで陸路で行った人物である。

 尚、漆工品に欠かせない加飾方法の一つが蒔絵と上述したが、漆工品にこの方法を使わずに文様を出す方法がある。津軽塗の独特な斑点模様を出す技法は、「唐塗」といって、これは、何度も漆を塗っては乾燥させ、研磨するという作業を繰り返して、合計で四十八もの工程から、言わば漆の中から文様が生み出される技法である。

 さて、ウィキペディアによると、ウルシの枝が福井県にある貝塚遺跡から発掘されたことにより、考古学的に、既に縄文時代草創期、即ち今から約1万2600年前には日本列島にウルシが生育していたことが証明されており、また、縄文時代の遺構、遺品の中から、漆を使った装飾品、赤漆を染み込ませた糸で加工された装飾品、技術的に高度な漆工品たる「赤色漆の櫛」、更には黒漆(精製漆に鉄分を混ぜたもの)の上に赤漆(精製漆に弁柄や辰砂を混ぜたもの)を塗った漆塗りの注口土器などが見つかっており、これらの発掘品により、漆を使う技術が中国から日本に伝わったという説は今では考古学的に覆されている。

 このように古くからある漆工の技術は、しかし、ある時期を持って漆器産業として急成長した経緯がある。それが、16世紀半ばにポルトガル人が偶然に日本に漂着したことで始まる南蛮貿易時代である。これにより、日本の漆工品が欧州人の目にも止まり、それで漆工品の需要が高まったことから、蒔絵や螺鈿の加飾を豪華に施して輸出用に作られ、加飾のモチーフもヨーロッパ風にした製品、いわゆる「南蛮漆器」が製作されるようになったのである。これは、安土・桃山時代のことであったが、江戸時代に入って、徳川幕府の「鎖国」政策が始まり、「南蛮貿易」が停滞すると、今度は、各藩が漆工を藩の産業として奨励することになる。こうして、会津塗や輪島塗、そして、津軽塗などが「殖産」され、藩に保護されて、幕末を迎える。

 幕末から明治維新以後の時代には、日本の漆工品は、大量に国外に「流失」したと言われているが、江戸時代までの漆工品の注文者は、武士階層であったのであり、明治維新により武士階層が士族になってからは、日本国内における漆工品の需要の幅が狭まったことを受けて、明治政府は、漆工品の海外輸出を「殖産興業」の一環として積極的に奨励する。こうしたこともあって、明治時代の漆工品は、日本国の威信も掛かっており、その質は極めて高度になったと言われる。この時期の「ウルシもの」が、とりわけ、その質が高いことから「明治漆工品」と呼ばれているが、こうして、欧米で開催される万国博覧会には陶磁器と共に漆器も出展されたのである。江戸時代に藩に保護されて興された「津軽塗」も、1873年に開催されたWienヴィーン万国博覧会に漆器を出展することになった際、その産地を明らかにするために名付けられたことから、「津軽塗」の名称が始まったと言う。南蛮漆器と言い、「明治漆工品」と言い、何れにしても、輸出産業としての絡みで漆器産業が成長したことは象徴的である。

 「コスパ」や「タイパ」の観点から物事が測られる現代日本では、「伝統工芸」とは、これらの基準のどちらも「悪い」、正に、真逆の存在で、美術工芸の国フランスならまだしも、現代日本では、これらが廃れる運命にあるのも無理はないのであろう。そういう「割が合わない」ものの一つが、漆工、即ちUrushiであるが、古都Heidelbergハイデルベルクに本社がある、あるドイツの筆記用具製造会社が2023年に漆塗製品を発表した。その製品名の一部には、ずばりurushiを採用して、漆を使う工芸家に依頼して、漆塗装の万年筆を二仕様それぞれ50本限定で製作させたと言う。加飾方法は、何か特殊な液体を漆の塗装した後に噴霧するやり方で、出来上がったこの作品は、質実剛健なドイツ製製品の美意識とは異なる、洗練された趣きで、日本人たる筆者にも好もしい一品である。

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