情報過多の時代に「枠」を持つ意味
事実とは何か。真実とは何か。その違いを意識すると、作品の見え方が変わることがある。事実は客観的な出来事の記録であり、真実はそこに感情が乗ったもの。エンタメとして描かれた作品であっても、作家の溢れる信念が宿ると、それは強い真実となる。
とある作品のラストに圧倒された。登場人物すべての物語が紡がれ、彼らが救われる瞬間を目の当たりにしたとき、胸が熱くなった。救いがある物語は、それだけで心を満たしてくれる。
かつて自殺したロシア外交官がいたという話を思い出した。残された人々の言葉が印象的だった。
「暗殺であった方が楽だったかもしれない。」
この言葉がずっと胸に残っている。真実を知ることが必ずしも救いになるわけではない。むしろ、知らない方が楽なこともある。だが、それでも人は知ろうとするのだろう。
フジの問題について
ここ最近、フジの問題が気になって仕方がない。ずっと考え続けているのに、自分でも何を考えているのかわからない。何がそんなに引っかかるのか。本来、自分には関係ないはずなのに、どうしてこんなにも気になるのか。
知りたいから?納得してスッキリしたいのか?
頭の中でずっと警報が鳴り続けている感じがする。早く終わってほしいのに、終わらせられない。情報を追いかけること自体が習慣になってしまったのかもしれない。
情報が溢れる時代に必要なこと
現代は、情報が無限に溢れ、楽しみが尽きない時代だ。しかし、それに振り回されていては心が疲弊するばかり。だからこそ、自分で「枠」を決めることが大切だ。
枠の外にあるものは、思い切って捨てる。情報の海の中で、すべてを追いかけることは不可能だからこそ、自分で選び取った枠の中で満足を見出す。その枠を意識し、何を手放すか見極めること。それが心の安定につながる。
情報の取捨選択が問われる時代、何を知り、何を捨てるか。その決断こそが、個々人の自由であり、責任でもある。