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ラベリングが色を奪う

ラベリングが色を奪っている

 最近、SNSで流行している◯◯界隈という言葉や、mbti診断など何かとある行動や気質をラベルにあてはめようとすることが多いような気がする。もちろん、ラベリングを全くせずに生きていくことは出来ない。思考を簡略化するという意味でラベリングの果たす役割は大きい。そうでなければ、私たちはただでさえ1日に膨大な数の思考をしているのに、さらに思考が増えてしまい、パンクしてしまう。そういう意味で、何かの型にはめるということ自体はとても重要だと思う。でも、最近は専ら行きすぎているような気がしてしまう。
 簡略化するという本来の良さ以上に、視野を狭めるという特性が出ていると感じる。何でもかんでもラベリングしているような感じ。ある行動をしたら、それはきっとこのmbtiだからだね、とか、ただその日だけ違うことをしたのにまるでそれがその人の全てであるかのように型にはめられてしまう。窮屈な状態。見えるキャパシティを増やして色を加えるための手段としてのラベリングが、もっと想像できるという余地をなくし、色を奪う存在になっている。
 たしかに、SNSはある部分を切り取ったものにすぎないから、隠れたコンテキストというものがある可能性もあるけれど、コンテキストを追いすぎている。そしてその帰着点としてラベリングがある。
 ややこしく考えすぎないで、もっとさっぱりと考えたい、そう思った今日この頃である。

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