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天国の日記 (5)

新しいエルサレムの住人が100億年ぶりに近況を報告しています。一辺2,200kmの立方体都市で、「ブッダチャレンジ」という56億7千万年の瞑想イベントに参加しました。この体験で「存在の根底」に触れ、全ての被造物の経験を共有しました。時空を超越し、他者の生を自分の生として体験することで、聖書の教えを自然に実践できるようになりました。これらの体験は、イエス・キリストの救いの恵みによるものだと感謝しています。

「新しいエルサレム」の第451階層に住み始めてからの様子を過去に4回ほど紹介した。続きを書かなきゃと思いながらも、ほかにやることが多すぎてついつい時間がたってしまった。旧世界の暦法なら100億年ぐらい経過しているだろうか。

なぜ前回からそんなに時間を置いてしまったかというと、まあいろいろやることが多かったということになる。ここ、新しいエルサレムは、一辺が2,200キロメートルの巨大な立方体で、高さ1キロの空間を持つ階層が1,000以上ある。そこに1,000億人以上の「神の子どもたち」が住んでいる。で、住人たちの創造的な発案によるいろいろなイベントが随時開催されている。単発・短期のイベントもあれば長期・半永久的なイベントもある。そういうのに参加していると、あっという間に時間がたってしまうのだ。

なかでも自分がいちばん時間を取られたのがブッダチャレンジというイベントだ。これひとつで56億7千万年も費やしてしまったし。ブッダチャレンジとは、大乗仏典に出てくるブッダが何十億年の何十億倍もの膨大な年月を瞑想してエンライトメントに至った、という体験を追体験するチャレンジだ。もちろん、ブッダと同じボリュームで瞑想するのは途方も無い。何十億年の何十億倍だからね。なので、マイトレーヤが出来して地球が滅亡するまでの期間とされる56億7千万年をワンセットとしてチャレンジする趣向になっている。ところで、実際の地球は仏典の預言とは異なり56億7千万年たっても滅亡しなかった。100億年が経過した現在、新しいエルサレムの最上階の展望デッキから自分の目で地球の健在を確認しているんだから間違いない。

なんでブッダチャレンジが発案されたかと言うと、生身の人間であればブッダみたく何十億年の何十億倍もの年月を瞑想するなんて不可能だからだ。瞑想するには生きていなければならず、生きるには食事をしなければならず、だから、じーっと座って瞑想だなんて1か月とか半年ぐらいが限度だろう。もし支援者が食事の面倒を見てくれたとしても、人間の一生は80歳ぐらいだから、それが瞑想の限界だということになる。何十億年なんて遠い夢。ところが、新しいエルサレムの住人は、イエス・キリストの救いの恩恵(主に栄光が世々限りなくありますように)によって各々が栄光の復活の体を与えられている。朽ちることのないこの身体性は永遠の命を生きているわけだから、生命維持のために食べたり飲んだりケアしたりする必要が無い。もちろん、それは永遠に断食しなければならないという意味ではなくって、新しいエルサレムではしょっちゅう宴会もあれば会食もあり、料理を作ってみんなで味わい楽しむ機会が無限にある。だけれど、それは食べなければ死んでしまうということではない。食べなくてもぜんぜん飢えないし死にもしない。永遠の命だからね。そういう新しい身体性を与えられているのであれば、地上で生きていた頃には絶対不可能だったブッダチャレンジ。。。何十億年もひたすら座って瞑想する。。。っていうのを簡単にできてしまえる理想的な状態ではないか?ということで、誰かの発案でスタートしたんだ。

自分はクリスチャンになる前に大乗仏典を愛読していたので、情報告知サイト「ニュー・エルサレム・ポータル」にブッダチャレンジの案内がアップされたとき、三億年ぐらい逡巡したんだけど、どう考えてもおもしろいよねと思ってエントリーした。エントリーすると、新しいエルサレムの第841階層のコミュニティセンターから招待状が伝書鳩で届いた。そこがブッダチャレンジの会場なのだ。第841階層は通称「須弥山」と呼ばれている。タテヨコ2,200キロ、天井高10キロの空間にヒマラヤのカイラス山を模した巨大な築山がドーンと置かれているので須弥山と呼ばれるようになったらしい。いや、模したというのは実は逆で、チャレンジ終了後に天使に訂正されたんだけれど、カイラス山を模して築山を作ったのではなく、築山を模して創造主(創造主に栄光が世々限りなくありますように)がカイラス山を創造したのだそうだ。新しいエルサレムの通常の階層は天井高1キロだけれど、築山を容れるために第841階層だけ異例の10キロとなっている。築山のあちこちには深い洞穴が穿たれていて、ひとつの穴にひとりのチャレンジャーが割り当てられる条件だ。穴というのはほんとうにただの洞窟で、椅子やベッドも無ければ照明もない。まあ、栄光の復活の体というのは微弱な光をいつでも放っていて、さらに自分が念じさえすればその光は無限のボリュームで調光可能だから、どんな暗黒でも太陽の1,000倍でも2,000倍でも好きな光量で照らすことができる。なので照明が無いのは問題では無い。でも、生身の人間だったら穴に入って瞑想が開始されると終了までの56億7千万年間だれも訪ねて来ないし、食事の供給も無い。ところが先述した通り、この復活の体は食べなくても飢えないから、56億7千万年を文字通り微動だにせず瞑想し続けることができる。

じゃあ、その復活の体を生かすエネルギーはどこから来ているのよ?という疑問になるんだけれど、それは永遠の命のパンであるイエス・キリストの内在(すべての命の源である主に栄光が世々限りなくありますように)によってエネルギーが常に供給されているからだ *¹。だから、瞑想している間は何も食べていないという表現は実は不正確であって、瞑想している間はいつもたえずのべつまくなしに命のパンであるイエス(主よ、そのパンをいつもわたしにくださることを感謝します。栄光が世々限りなく主にありますように)を食べ続けていることになる。こうして飢えることも渇くことも無いのだから、ブッダチャレンジには理想的な状態だ。オリジナルのブッダだってこんなに恵まれていなかっただろう。こういう理想的な環境で本気でチャレンジすれば56億7千万年どころか何十億年の何十億倍だって瞑想し続けることができるわけだけど。いちおう区切りがあるので、エントリーしたチャレンジャーはみんな区切りに従って終了すべきタイミングで終了した。つまり、ひとりの脱落者も出さずに56億7千万年の瞑想を全員やり切った。

56億7千万年の瞑想をしている間、自分はどういう体験をしたのかというと、ひとことで言えば「存在の根底」*² に触れる体験をしたんだ。存在の根底とは中世後期のドイツの神学者マイスター・エックハルトが使った用語なんだけど、ちょっと説明する。神は存在の根底において神が神を認識し分節化して三位一体の神になった。知る神(父)、知られる神(子)、知ることである神(聖霊)だ。それが存在の根底だ。で、それと同じようにして、神は存在の根底において聖霊によって人間を分節化して、知る私(主体)、知られる私(自我)、知ることである私(意識)から成る「私」を創造したんだ。私=自分というのは神によってそういうふうに作られているわけだね。で、自分が深い瞑想状態に入って行って、この私が主体・自我・意識に分節化する以前の未分節の状態になることで「存在の根底」に触れることができる。存在の根底まで降りていくことをエックハルトは「放下」と言ったんだけど、自分が地上で生きていた頃は放下できるほど瞑想をやるのは不可能だった。だって、いつもたえずつねに自分が・自分の・自分に・自分を・自分で、にかかずらってばかりで、自分自分自分を全力でも脱力でもで生きていたわけだからねー。1か月や10か月や10年座ったぐらいで放下するなんて絶対不可能。でも、このブッダチャレンジでほんとうに放下して存在の根底に触れる経験を自分はすることができたんだ *³。

これはとっても不思議なことなんだけど、存在の根底では時間も空間も消える。どうしてそうなるかというと、存在の根底において聖霊が働いて、知る私(主体)、知られる私(自我)、知ることである私(意識)が分節化されて、その結果、主体が自我に自己譲与して意識が生成されるというメカニズムで人間が創造されていることによる。主体が自我に自己譲与するスペースとして時間と空間が生成され、時間と空間の軸に沿って意識が生成されているんだ。これはつまり、意識が時間と空間を生んでいると言いかえてもいいことになる。ところで、深い瞑想状態に入って、主体が自我に自己譲与する以前の状態、つまり、時間と空間の軸に沿って意識が生成される以前の状態になると、そこには意識のベクトル(志向性)である時間と空間が消えてしまう。で、消えた瞬間「存在の根底」が露呈してきて自分はそこに触れているんだ。しかも、この存在の根底は、神の存在の根底でもあり、自分の存在の根底でもあるということなんだよね *⁴。ここの説明の仕方をちょっとミスったので、エックハルトは教会当局から汎神論の異端として処断されてしまった。先日、新しいエルサレムの「真珠門茶館」(パーリーゲート・カフェ)で開催された「ドイツ神秘主義を反省するトークライブ」では、ドミニコ、トマス・アクィナス、エックハルト、タウラー、ゾイゼ、匿名の騎士修道士、ルター、ツヴィングリがディスカションを行ったのだけど、エックハルトは「そこを説明する言葉が足りなかったんですよね。でもまあ今でもやっぱり説明できないけど」って苦笑いしていた。この存在の根底において自分は無媒介的かつ直接的に神に結合した状態になった。いわゆる神人合一とかウニオ・ミスティカとか言うやつだ。ところが不思議なことに、それはあくまで瞑想してそうなっているだけであって、瞑想という行為の主体である自分はそこにいないようでやっぱりいるんだよね(どっちやねん笑)。だって、いくら瞑想しても創造主の創造の作品である「自己」を完全に滅失することは被造物の自分にはできっこないわけで。だから、完全な神人合一の中で自分はほぼ消失しているんだけどやっぱり自分はいるっていう謎の状態。この状態をどうやって人間の言語で表現したらいいか悩むけど、簡単に言えば「神は私であるけれど、私は神ではない」という、対称性論理と非対称性論理を超越した地点に自分がいるという体験なんじゃないかなあと思う。しかもその体験たるや、時間も空間も消えた存在の根底における体験だから、時空を超越しているんだよね *⁵。56億7千万年の間じーっと座って瞑想していたはずなのに、ほんの一瞬の出来事、3秒とか6秒ぐらいの経験に感じられる面もあるし、逆に56億7千万年どころではない阿僧祇那由他不可思議年ぐらいの年月に感じられる面もある。時空を超越してるんだから経験的にはそうなっちゃうんだ。なので、ブッダチャレンジの終了を告げる天使が洞窟に入ってきて警策みたいな棒でポンと自分の肩をたたいてくれたとき、えっ、5分しか立ってないじゃんって腕時計を見たぐらいだった。

ここから先がさらにすごいのだけれど、存在の根底に自分が触れたとき、それは存在の根底において存在しているすべての被造物の経験に触れるということでもあったんだよね。だって、存在の根底には神と自分がいるだけじゃなく、神が創造したすべての被造物が同じ存在の根底でもって存在しているわけだから。しかもそこには、すべての被造物が各々の生において経験した全情報が保全されている。つまり、存在の根底を介して自分は他者の内面に入り込んで、他者の生を自分の生として経験できたということなんだ。これは、過去・現在・未来に生きたすべての他者の内面に入り込んで、その生をすべて自分の生としてリアルに生きる体験だった。他者の総数は1,000億人ぐらいだけど、3歳とか25歳とか42歳とか67歳とか83歳とか102歳とかさまざまな寿命で生きた1,000億人の生をリアルな時間にあてはめたら、それこそ何千億年も瞑想しなきゃいけないことになる。だけどさっき述べた理由でそれは一瞬で終わり、あるいは、56億7千万年の限度で終わった。地上で生きていた時には、他者の他者性とは絶対に理解できない彼岸にいる存在ということだった。そうではあっても、なんとか他者の内面に入り込んで理解したいという謎の心の駆動に動かされて、他人の話を聞いたり小説を読んだり映画を観たり妄想したりして他者を理解しようと努めていた。でも、やっぱり他者は他者だから理解不能だったんだよね。ところが、ブッダチャレンジで存在の根底を介してすべての他者の内面に入り込んでその生を自分の生として経験できたとき、もうね、ギャップは消えてしまったんだ。「彼岸を行ける者よ、彼岸を行ける者よ、スヴァーハー」*⁶ って唱える必要はなかった。だってさ、そこには此岸と彼岸が無いんだから。しかしねー、これがやっぱり不思議なんだけど、他者の生に入り込んでその生を自分の生として経験している最中であっても、瞑想している主体はやっぱりこの自分であるわけだから、そこはさっき言った「神は私であるけれど、私は神ではない」*⁷ と類似したことが起きていることになる。つまり「他者は私であるけれど、私は他者ではない」っていう経験だ。

それにしたって、過去・現在・未来のすべての人間の生を自分の生として経験することは、それだけのボリュームの喜びや楽しみと共にそれだけのボリュームの不条理・怒り・憎しみ・失望・絶望を共有することを意味するわけだから、そんなのを56億7千万年にわたって経験したら自分はぶっ壊れてしまうのではないかと不安に感じないわけではなかった。でも、ぜんぜんぶっ壊れなかった。あまりにも不思議だったので、警策を持って終了を告げにきた天使に聞いたんだ。天使は微笑みながらこう答えた。「だれも壊れなんかしませんよ。だって、あのお方(尊いあのお方に栄光が世々限りなくありますように)がこの宇宙のすべての苦しみを収めた杯をすべてすっかり飲み干して、十字架の上で壊れてくださったんだから。ぜんぜん心配しないで。」

父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。

マタイによる福音書26:42

ブッダチャレンジが終わってカイラス山の元型である築山の穴を出て、第841階層から自分の家がある第451階層に戻った時、例のヤモリ、スズメ、金魚の三人が出迎えてくれた。帰宅を祝う夕食を用意して待っていてくれたんだ。三人はブッダチャレンジ未経験者だったから、興味津々で質問攻めにしてきた。そのため夕食はぜんぜん終わらなくって、そこから会話はまる三年続いたんだけど。思慮深い青年であるスズメはこう感想を述べた。「地上に生きていた時、自分がよくお米をついばみに行っていたお寺の和尚さんが輪廻転生の話をしてくれて、おまえはスズメであっても良いスズメとして生きれば来世では人間になれるかもしれないよって言われて、いろいろ夢を思い描いていたんです。でもブッダチャレンジのことを聞いて、これって輪廻転生を凌駕しているなーって思いました。だって、輪廻は過去のことで、しかも自分が生まれ変わって通ってきた特定ルートの生しか経験できない範囲限定じゃないですか。でも、新しいエルサレムのブッダチャレンジは過去・現在・未来のすべての被造物の生をリアルに自分の生として経験できるんだから。そのボリュームは輪廻のはるかに上を行っていますよ。ぼくも絶対やってみたい。」

それから話が延々と続いて三年目に入った終わり頃、自分はこういう言葉で会話をしめくくった。「地上で生きていた頃は『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』とか『自分を愛するように隣人を愛しなさい』とか『七を七十倍するまで他人を赦しなさい』とか『裁くな。他人を裁く秤で自分も量り返される』とかっていう聖句 *⁸ は、自分にとって永遠に達成不能な目標であって、一度も実行できた試しがなかったんだけど。でもブッダチャレンジを終えた今は言えるんだ。オレできたって。完全に達成したって。それについて考えたり決心したり悩んだり努力したりする間もなく、できるようになっちゃったって。それについて意識する必要もないぐらい、あたりまえのデフォルト状態になっているって。それはね、やっぱりイエスさまが(主に栄光が世々限りなくありますように)全人類の苦しみの杯を飲み干してくださったからなんだなーって、しみじみ思うんだ。」

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

ヨハネの手紙一3:2

会話が終わって、別れ際にヤモリ、スズメ、金魚の三人が言った。「もっかいブッダチャレンジやるとかありますか?」 自分はにやにやしながら、チャレンジ終わりに天使からもらった金色の三つ折りパンフレットを取り出して説明した。「ほら、このパンフレットを見て。天使が言うには、宇宙っていうのはこの宇宙だけではないんだ。パラレルワールドって言って、この宇宙に少し似ていたり、全然似てなかったりする宇宙が他にも無数にあるんだって。で、それぞれの宇宙にすごい数の他者が住んでいる。だから、すべてのパラレルワールドでのブッダチャレンジが無数に用意されているんだ。なので、いつでもエントリーしてくださいって。ここに書いてあるのが各パラレルワールドのエントリーサイトだよ。どうする?」

わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

ヨハネによる福音書10:16

註)
*1. Cf. ヨハネ6:48
*2. ヨハネ1:1 "ἀρχή"
*3. マタイ16:24 "ἀπαρνέομαι"
*4. Cf. 『エックハルト・ドイツ語著作集』(DW) 第1巻90ページ
*5. Cf.『シュヴェスター・カトライ』(フランツ=ヨゼフ・シュヴァイツァー『ドイツ神秘主義における自由の概念』所収) 334-335ページ
*6. Cf.「般若波羅蜜多心経」『大正新脩大蔵経』(No.251) 第8巻848頁ページ
*7. Cf. 上田閑照「根源的人間ーエックハルトに於ける『真人』(ein war mensche)についてー」『密教文化』1973年第101号34ページ
*8. Cf. マタイ5:44, マタイ22:39, マタイ18:22, マタイ7:1-2


※上記の文章はAIではなく人間が執筆したフィクションです。

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