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気候変動サミット~地球を守る声の高まり

4月22・23日、アメリカ主催で気候変動サミットが開催されました。ここでは、各国の積極的な取り組み姿勢が見られ、大変勇気づけられるものがありました。これはまさに、「地球を守らなければならない」という世界の人々の声が高まっていることを示すもので、未来への希望を見出せるものでした。(見出し画像は一昨年のサミットの模様。今年はオンライン開催でした。)

気候変動サミットの成果

アメリカのトランプ前政権がパリ協定からの離脱を決め、地球を温暖化から守る道筋は暗がりに入っていました。これを批判してきたバイデン大統領は、就任後すぐにこれを撤回し、パリ協定に復帰、気候変動問題への積極的な取り組み姿勢を打ち出しました。それを実証するかのようにアメリカ主催で開催された今回の気候変動サミット。その開催自体が象徴的意味において重要な成果と言えるかもしれません。

しかし、それにとどまらず、具体的で実質的な成果をもたらすものでもありました。

まず、バイデン大統領は、地球環境問題に積極的に取り組んでいたオバマ前々政権(中国との首脳会談によりパリ協定への米中同時批准を実現しました)の設定した目標を、さらに倍増する野心的な計画を表明しました。アメリカの温室効果ガス排出量は05年比で19年現在約12%減ですが、これを30年までに50~52%減までもっていくと打ち出したのです。

日本は、20年秋に50年までに温室効果ガス排出量を実質ゼロにすることを表明しましたが、これまでのところ30年度までに13年度比26%減としていました。それを、今回のサミットで46%減とすることを打ち出し、さらに50%減に向けて挑戦することを表明しました。

EUは20年末、すでに30年に90年比55%以上減らす計画を掲げており、EUから離脱したイギリスは今回35年までに90年比78%減の目標を打ち出しました。

近年、猛暑や異常気象にみまわれ、温暖化対策の必要性を強く実感しているヨーロッパの国々が温暖化対策では先行する傾向がありましたが、アメリカ、日本がこれに続いた形です。

CO2排出量世界一位の中国は、30年までに排出量を減少に転じさせ、60年までに実質ゼロにするとの昨年の宣言を維持するにとどまりました。一層の取り組みが期待されますが、今般のサミットの成果は中国に対する一層の圧力になると思います。

パリ協定では、18世紀の産業革命以前との比較で、気温上昇を「2度を十分に下回り、1.5度に抑える努力をする」ことが謳われており、そのためには30年までにCO2排出量を10年比45%減とし、50年前後には実質ゼロにする必要があると言われています。これと比較すると、今回の各国の表明はかなりの程度パリ協定の目標実現に肉薄するものと言えそうです。

地球環境問題と「国際社会」の構造

今般のサミットの大きな成果は、地球を守らなければならないという市民の声の高まりが背景にあると思います。

もともと、地球環境問題というのは、非常にやっかいな課題です。

欧米やアジアの先進国においては、急速な経済発展の影響で、60年代以降、工場からの排水や排煙により、各国内で公害が深刻になっていきました。これらの問題は、大気汚染や水質汚濁、土壌汚染など、その周囲において直接的な健康被害や生活環境の悪化をもたらすものでした。つまり、基本的に加害国がすなわち被害国でした。そのため、各国とも自国において必死になって対策に取り組んだわけです。

しかしながら、今、身近な範囲で悪影響を直接に及ぼすものではない排出物(=二酸化炭素)が、地球全体として見た時に大きな悪影響を及ぼすものであることが認識されているのです。この、普通に人間の周りに存在していて何ら健康を害さない気体が、地球に対する温室効果を持つとされ、その排出拡大が地球規模においてその環境、生態系に影響を及ぼしていると認識されているわけです。

つまり、それぞれの国の中に加害者と被害者がいるのではなく、世界全体が加害者で世界全体が被害者なのです。

このような問題は、まさに個別の国家がバラバラに対応できる問題ではありません。意識の高い国が、進んでCO2排出量の削減に取り組んだとしても、他の国がその努力にフリーライドするだけなのです。そうなればどこの国もまじめに取り組まない。したがって否応なしに国際的な協力が不可欠になってくるわけです。

「国際的な協力」と簡単に言いますが、現在の主権国家が併存する「国際社会」の状況において、この種の協力は非常に難しいのです。つまり、各国はあくまで自国の利益や安全を最大化するために行動します。「地球を守る」ことは、明らかに人類共通の価値であり目標ですが、そのための意思決定と行動は国ごとということになります。

主権国家が主体となっている世界のあり方を軌道修正するのは、主権国家自身でしかありません。そのため、地球を守るという人類共通の目標と価値を共有してはいても、それを実現するために如何に自国の負担を最小化するかという国益概念が行動原理になってしまいます。

民主主義というのは、それぞれの国の中で機能するのです。ですので、その国が引き受ける義務よりも大きな便益をその国が受けなければ、民意の支持は得られません。

地球を守り、人類全体の生存を確保するのは、究極の「人類益」といっても過言ではありません。しかしこの「人類益」は国ごとの「国益」に分割することはできません。そうすると、国ごとに受け入れるべき義務と対応させることが困難になるわけです。

このような構造的な問題が、明らかに目の前にある課題への取り組みを困難にしてきたのです。

後押しした「世界市民」の声

このよな国家の行動原理を少しづつ変えていったのは、市民の声だと思います。それは各国の国民というよりは、世界を構成する「世界市民」としての声です。

目先の利益や安全だけでなく、地球全体を守ることの重要性を真に理解し、そのことの価値を推進しようという声。その声によって、地球環境問題への取り組みを強調する政党に対する支持が各国で高まり、また省エネやCO2排出量削減に取り組む企業への支援(投資や消費行動)が高まっています。

そうなってくると、各国の政治・経済のリーダーたちも地球環境問題を重視せざるをえなくなります。「せざるをえなくなった」というより、おそらく多くのリーダーたちはそれを重視したかったのだと思います。しかし、民意がそれを後押ししてくれないと、この世界では生き残れないのです。

地球環境を重視すれば、ゴミの分別の徹底から始まり、レジ袋の有料化、さらには税金の引上げなども必要になってきます。それらに民意の支持が得られなければ、政策は実現できません。それを主張する政党に対する支持が低下したり、その政党の議員が次の選挙で落選してしまいます。

また、企業活動にあっても、カーボンニュートラルを目指すとなれば、不可避的にコストが上がり、目先の収益は悪化します。このような企業の取り組みに民意の支持が得られなければ、価格の上がった製品を人は買わなくなりますし、株価が下落するなどして株主の理解も得られません。

もしこの分野での企業の取り組みを減税などの税制で支援するとすれば、その分の財政資金を他の税金で調達しなければなりません。結局それは国民の負担になり、反発も生じるでしょう。

そのような状況に変化をもたらし始めたのが、市民の声です。それも国境に閉ざされた国ごとの利益を考えるだけではない、世界と地球全体のことを考える「世界市民」の声なのです。地球を救うためには、国の中だけ、目先のことだけではダメなのだと理解し、様々な負担を進んで引き受けるようになってきた。それが国や企業の行動を変え、世界を変えつつあるのだと思います。

SDGs-世界全体の開発目標

SDGsという言葉を、今や非常に多くの人が認識しています。「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals)は15年に国連で採択されたものですが、その前身である「ミレニアム開発目標」(00年~)と比較しても、明らかに多くの人の間に浸透しています。

「開発目標」の考え方は、90年代半ばから、特に援助関係者の間で強く意識されるようになりました(ちょうどそのころ、私は外務省でODA関係の仕事をしていました)。それまでは、先進国が「GDPの何%を援助に回す」などのように、どれだけ援助の負担を負っているかということを競っている面がありました。しかし、いくらお金をつぎ込んでも、無意味な用途に使われたり、汚職で腐敗した関係者の懐に消えては意味がありません。

それよりも、貧困をどれだけ削減する、初等教育をどれだけ広げる、医療をどれだけ拡充する、乳幼児死亡率は・・・、清潔な水へのアクセスは・・・というように、何をどれだけ実現するか、実現できたか、それが重要だと認識されていったのです。つまり、重要なのはインプットの額ではなく、アウトプットでしょう、ということです。

それがまとまった形で示されたのが、00年の「ミレニアム開発目標」でした。その成立の経緯からもわかるように、それは主に開発途上国をどのように支援していくべきかという指針の要素が強くありました。そこには、開発目標の一つとして「環境の持続可能性の確保」が盛り込まれましたが、世界全体の目標という形ではあまり強く認識されていませんでした。

それが15年のSDGsにおいては、「持続可能な」ということが全体の目標のタイトルに掲げられ、まさに世界全体がめざすべき課題として明確に打ち出されました。引き続き、開発途上国の抱える問題は大きな問題であり、貧困、医療、衛生、教育など実現しなければならない課題は多く、それを忘れることはできません。実際にそれらの問題が、SDGsの多くの部分を占めています。

しかし同時に、開発目標が持続可能性を特に強調したことによって、多くの人の地球環境問題への認識を新たにさせたことは良かったと思います(今ではむしろ、SDGsがもっぱら地球環境問題についての目標だと誤解している人さえいるような気がします)。このことも、地球環境を重視する「世界市民」の声を高める効果を持っていると思います。

コロナ禍がもたらした団結

コロナ禍に見舞われた世界の状況も、私たちに「世界市民」としての認識をもたせたのではないかと思います。

長引くコロナ禍と、それによって失われた多くの命は、私たちに「世界共通の敵」の存在を強く認識させることになりました。

地球温暖化の問題は、確実に予見される問題ですが、コロナ禍のような世界的規模の災禍がすでに起きているとまでは言えないでしょう。島嶼国における海面上昇はそれらの島々においては深刻だと思いますし、ヨーロッパでの近年の猛暑、干ばつも温暖化に関連している可能性が指摘されています。

しかし世界中の多くの人にとっては、「地球が人間の住めない場所になる」というのは、遠い先の話のように思われています。それゆえに、「どうせそのころには自分は生きてない」とか「問題が起きた時に考えればよい」といった姿勢になりがちです。

それに対して、突如として現れた新型コロナ・ウィルスは、瞬く間に世界に広がり、恐ろしく甚大な被害をもたらしています。このような共通の敵に直面し、これとの困難な闘いを継続してきたことは、私たち市民の間に国境を越えた団結の心を芽生えさせているのだと思います。このことが、もう一つの共通の敵である地球温暖化との闘いの心を燃やすことになったのではないでしょうか。

目標実現に向けた取り組み

繰り返しますが、今般の地球環境サミットで多くの野心的な目標が寄せられたことは、高く評価できると思います。もちろん、今後重要なのはその実現です。

世の中の人たちは無責任なもので、十分な目標が提示されなければ「やる気がない」と非難するのに、野心的な目標が提示されると「ちゃんと実現できるのか」「具体策がない」などと批判します。

目標実現の成否は、再生可能エネルギーの開発、省エネ技術の開発など、当然ながら成果が不確実な要素に多分に依存します。これについては、意欲、意思だけでは、どうなるかなんとも言えないでしょう。

各国が何をどのように想定して数値目標を出したのかはわかりません。ただ、日本政府の出した46%減という細かな数値には、相当な覚悟と責任感が感じられます。そこまで行けるなら「50%」にコミット(確約)すべしというのが菅総理大臣の考えだったものと想像します。企業活動への過度の影響を恐れる経済産業省の抵抗は相当なものだったでしょう(それは彼らのミッションであり、そこを非難すべきではありません)。そこでのギリギリの想定と計算から出た数字が46%だったのだと思います。

私は国家公務員ですが、この問題に業務として直接携わっているわけではありません。一人の国民として、一人の世界市民として、地球のことを考えていきたいと思います。何より、そのことが各国の取り組みを後押しするものだと思うからです。


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