春の断片
今日は4月並みに暖かいらしい。
そう聞いていつもよりほんの少し軽い装いで家を出る。
昼を過ぎた駅のホーム。
屋根の隙間から差し込む日の光が電車を待つ人々を照らす。
受けた光を遮って地面にくっきりと影を作る。
あぁ、なんか春っぽいな。
そんなことを考えている内に電車が駅のホームに滑り込む。
電車に乗り込みシートに座り込む。鞄から文庫本を取り出す。
若林正恭著『社会人大学人見知り学部 卒業見込』を読む。
いくつかの駅を通り過ぎた頃に視線を本から外して前を向いたら、カップルが目の前に座っていた。
同じ色のマスクを身に付け、Bluetoothイヤホンを二人で分け合っている。
彼の方は相手の肩に寄りかかって眠りについている。女性はiPhoneに視線を落とし握った彼の手を人差し指で叩きながらビートを刻んでいる。
視線を本に戻す。
若林正恭は、下積み時代に付き合っていた彼女に面倒を見てもらっているくせに腕枕をしている自分は何様なんだと笑いそうになる。と本の中で語っている。
♢
いくつか電車を乗り越え僕は上野駅に降り立つ。
今日はフェルメールを見にココまできた。
久々に降り立つ上野駅。
最後の着たのはいつだっただろうか。と、過去の記憶を辿りながら改札を通り抜ける。
そういえば、専門を卒業して何年か経った後に友人らと花見できた気がする。その時は少し早くき過ぎて改札のすぐ横にあったカフェで時間を潰していたんだった。
そう思って改札を抜けた先で視線をカフェがあった先に向けると、そもそもの駅の形が変わっていたことに気づく。
よく見れば、駅から上野公園までの歩道がなくなって歩道が地続きになっている。
何年か来ない間に街の姿が変わったらしい。
懐かしさと寂しさを感じながら桜カラーに彩られたスターバックスに入る。
感染症対策でチケットは予約制。予約した時間になるまで入れない。
確か16時半に予約してた気がする。
まだ1時間以上時間がある。本を読んで時間を潰そう。
そう思ってレジでトリプルエスプレッソラテを注文する。
カフェインの取りすぎで今夜は眠れないかもな。そんなことを考えながら席について栞を挟んだページを開いて、また若林正恭の人生観に意識を溶かす。
♢
ガタッ。と目の前で椅子を引く音がする。
アクリルの向こう側で若い女性がフラペチーノを持って腰掛ける。
鞄から雑誌と葉書とペンケースを取り出す。
ドックイヤーされたページを開きそこに書かれた宛先を2枚の葉書に書き写す。アイドルのチェキがもらえるらしい。
令和の時代に葉書の応募ってあるんだなぁ。と思いながら、綺麗なピンク色にデコレーションされたネイルが掴むペン先をぼんやりと見つめる。
葉書をひっくり返して女性が住所を書き始めた時に、僕は何を見ているんだ。と我にかえる。
危なく知らない女性の個人情報を盗み見るところだった。
帰ってきた意識を逸らす様に時計に目線を流す。
15時半が過ぎた。
そういえば、ネットで予約したけどどうやってそれを示すんだろう。と今更気づいてメールを開く。2日前に届いたメールをスクロールして探す。
お目当てのメールを見つけて開く。QRコードをかざせ。と書いてある。
なるほど、簡単だな。とりあえず直前でばたつかない様に開いておこう。
そう思ってリンクを開く。
入場券の代わりとなるQRコードが表示される。
その上に、入場時間15:30-16:00と書いてある。二度見する。
しまった勘違いしていた。画面の右上の時計に視線を移す。15時42分。やばい急げ。
トリプルエスプレッソラテが入った紙カップを煽る。
本を鞄に突っ込んで早歩きで店を出て東京都美術館を目指す。
♢
QRコードをかざす。時間は15時58分。
早歩きで駆け込んだ体はあったまっていた。
ほんの少し荒くなった呼吸を落ち着けて、音声ガイドの料金を払う。
ヘッドホンで両耳を覆う。フェルメール展に入り込む。
展示会の入り口に張り出された「はじめに」の文章に目を通す。
どうやら、フェルメールの手紙を読む女が修復されたばかりで、その作品が遥々海を渡って日本に来たらしい。
窓辺で手紙を読む女の向こう側はなんの変哲もない白い壁だった。しかし、白い壁は何者かが塗りつぶした白い壁だった。その壁の向こうには一枚のキューピットの絵画が描かれていたらしい。
僕はそんなことも知らずに展示会に来ていたのか。と何も調べずに思いつきで来たことに気付いてマスクの下でほんの少し自嘲気味に笑ってしまった。
音声ガイドを聴きながら館内を丁寧にまわる。人だかりができている。
今展示会の主役。「手紙を読む女」の前まで来ていた。
少しづつ人が離れるにつれて絵が見えてくる。
絵の上部に描かれているキューピッドが見える。
目の前の人々がまた少しづつ離れてくる。
手紙を読む女性がみえる。
繊細な絵だな。それが第一印象だった。
隅々まで視線を運びながら音声ガイドに意識を傾ける。
「嘘を象徴する仮面を踏みつけるキューピッド、それらは”嘘や欺瞞に打ち勝つのは愛情のみだ”と示唆している」とガイドが流れる。
そういえば、絵の中で手紙が出てきたら、絵の中に描かれる絵画に注目する。と『モチーフで読む美術史』という本で読んだ。
特に船の絵画が描かれていれば、オランダ絵画の世界ではその手紙は「恋文」を意味するらしい。
仮面を踏みつけるキューピッドの手前で女性は手紙に目を落とす。
浮かない表情の様に見えてくる。彼女は手紙を読みながら何を思っているのだろうか。
見ていても答えは出ない。
これ以上見ていたら他の人に迷惑になるな。と思って作品から遠ざかる。
そのうち誰かが答えを導き出してくれるだろう。そんなことを考えながら残りの作品を観て会場を後にする。
♢
美術館を出る。
開く自動ドアから冷たい風が流れ込む。
春の陽気は日暮とともに消えていた。
大きなガラス窓の向こう側に見えるフェルメール展のポスターを改めて見る。ガラスが反射して暮れた空を映し出す。
17時を過ぎた空はほんのり暗い。けれど、まだ日の光がうっすらここまで届いている。
日が長くなった。春が近づいているらしい。
きっともうすぐここも桜が満開になる。
流石に今年も花見は難しいだろうな。と考えていたらお腹が鳴った。
なんだよ。まだ花も咲いてないのに花より団子かよ。と、またマスクの下で一人笑いながら上野公園を抜けた。
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