大切なプレゼントこそリボンは付いていないから見逃さないでね
いつからか、サンタさんにプレゼントを願わなくなった。
大学生の頃、鼻の穴から手が出るほど欲しいトレンチコートに出会った。とっても美しい淡いブルーのトレンチコート。大学生最後の春にどうしても着たかった。値段は2万円。学生にとっては高価だった。
アルバイト代から地道に貯金した2万円を握りしめ、手汗をかきながら再びお店に突入して、お目当てのコートをすばやく手に取った。
レジに並んでいると、私と同い歳くらいの女の子と母親らしきふたりが目に入った。私が購入するコートと同じものを女の子は試着している。お母さんに「似合うね」と言われ、笑っている。すると、お母さんがコートを手に取って私の後ろに並んだ。先に商品を受け取る店員さんに「ラッピングお願いします」と、お願いをする声が聞こえた。
「うらやましいなあ」
久しぶりに、ぽつんとこんな言葉が心からもれた。自分で驚いた。
小学校低学年の頃、我が家にはサンタさんが来なくなった。「空を渡っている途中で事故にあったから、もうサンタは来ない」と、両親に悲しすぎる宣告をされた。あまりにも残酷で強引なサンタさんからの卒業。
クリスマス当日、登校するとクラスメイトたちがサンタさんに何を貰ったかの会話で盛り上がっていた。「うらやましい」、ただそれだけしか言えなかった。
リボンをまとったプレゼントは、もうそれっきり貰えなかった。
大人になるにつれて、プレゼントに固執することはなくなった。だって、ほんとに欲しければ、自分で買えばいいのだから。
甘えるのが苦手な私にとっては、誰かにかわいくおねだりするより、自分で買ってしまった方がむしろ楽だった。
それなのに、同じコートを親に買ってもらう女の子と、自分のお金で買う私を比較すると、なんだか惨めに思えた。私が買ったコートより、女の子のそれのほうがいくらか良い物の様に見えた。まるで、サンタさんが来る友達をうらやましがっていた、小学生の頃の私に戻ったような気分だった。
きっと、一緒に買い物をしながらコートをプレゼントする母親と、それを受け取る娘の間にある物語がうらやましかったのだろうと、今では思う。
私が欲しいのはプレゼントそのモノではない。モノが結ぶ、人と人との物語が欲しかった。大人が自分で手に入れることのできないプレゼントは、モノが結ぶ物語から伝わる「優しさ」であり、「愛されている証」なのかもしれない。
その証は、時に些細なモノとなり、時にモノではなく行動として、人に受け渡される。リボンを付ければ壊れてしまうほど、とても繊細なのだ。
新人の頃、トラブルでお客さんに謝りに行った帰り。こっぴどく怒られてずっと無言だった私に、同行してくれた先輩がおごってくれたスタバのホットココアの温かさを今でも忘れられない。リボンは付いていなかったけど、無理に励ましもしない先輩の優しさがこもったプレゼントだった。
もうサンタさんにプレゼントを願うことはないだろう。たとえ、見ず知らずのサンタさんから立派なリボンをまとったプレゼントを貰ったとしても、きっと、いつか記憶からこぼれおちてしまうから。
ありふれた日常の中で「あなた」が「わたし」にくれることに意味がある、リボンさえ付いていないプレゼントを見逃さないように生きていこう。
※この記事は考えるOLの初著書であるKADOKAWA刊行「がんばらないことをがんばるって決めた。」(文:考えるOL/イラスト:おさつ)に収録されています。
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