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東日本大震災の裏側

2011年3月11日、東日本大震災が起こったという事実を忘れた者はいないだろう。押し寄せる黒い波、家屋・ビルに取り残さる人々、たちまち広がる火災。ニュースを通して地震と津波の恐ろしさが日本国民、いや世界中に伝えられた。

が、私がここで伝えたいのは地震と津波の恐ろしさではなく、その恐怖の中で政府は、被災した地域の役人たちは何をしていたのかだ。

以下の内容は私が地元の図書館で集めた資料に沿って、福島県いわき市を例に挙げたものだ。

2011年3月11日 

14時46分  東日本大震災が発生。

14時49分  気象庁 大津波警報(3m)を発令。

14時50分  市長が災害対策本部を設置、同時に避難所開設、食料の確認・調達、生活必需品の確認・調達を指示。

14時51分  防災無線で避難指示。

14時52分  津波(1.0m)着

15時08分  津波(2.6m)着

15時14分  気象庁 大津波警報(6m)に修正

15時30分  気象庁 大津波警報(10m以上)に修正

15時37分  福島第一原発1~4号機 全交流電力を喪失

15時39分  津波(3.3m)着

15時45分  再度避難警告(沿岸部)

16時30分  自衛隊要請(市長から県知事へ)

16時36分  福島第一原発1,2号機で非常用炉心冷却装置による冷却不可と判明

18時00分頃 福島第一原発1号機 炉心損傷,水素発生

(上記の太字の部分に関して。いわき市は「防災対策を重点的に充実すべき範囲(EPZ)」(原発から半径8㎞~10㎞)区域外だったため、政府(原子力安全委員会)から直接情報が入ることはなかった。また、EPZ内ですら政府からの情報はなかった) 

19時03分  菅内閣総理大臣より、原子力緊急事態宣言 発令

19時23分  福島第一原発から半径3㎞圏内に避難命令 3~10㎞圏内に屋内退避命令

20時00分頃 津波(6.81m)着

23時00分頃 陸上自衛隊第六高射特科大隊 到着


2011年3月12日

早朝    福島第一原発1~3号機への注水は順調と思われる と政府発表

04時10分  日本赤十字社福島県支部にDMAT(災害派遣医療チーム)の派遣を要請

05時44分  福島第一原発から半径10㎞圏内に避難命令

07時45分  福島第二原発から半径3㎞圏内に避難命令 3~10㎞圏内に屋内退避命令

10時17分  福島第一原発1号機 ベント開始

14時00分頃 原子力安全保安院が「メルトダウンの可能性」と発表(福島第一原発1号機)

15時36分  福島第一原発1号機 水素爆発

16時17分  東京電力が「福島第一原発において放射線量が制限値を超える緊急事態になった」と発表

18時25分  福島第一原発から半径20㎞圏内に避難命令


2011年3月13日

05時10分  福島第一原発3号機 冷却機能喪失

10時20分  福島第一原発3号機 炉心が損傷開始

15時41分  政府は福島第一原発3号機原子炉建屋爆発の可能性を発表

(2011年3月13日の時点で、いわき市市長 渡辺敬夫氏は最悪の事態を考え、第一・第二原発から30㎞の距離を地図に落とし、あらゆる交通手段のチャーターによる避難計画を立案し、翌朝30㎞圏内に自主避難を独自の判断で要請した。また、菅内閣が第一から20~30㎞圏内に自主避難指示を出したのは2011年3月25日11時46分の事である。)


2011年3月14日  いわき市内での避難計画作成完了

11時01分  福島第一原発3号機 水素爆発

13時25分  福島第一原発2号機 冷却機能喪失


2011年3月15日

00時02分  福島第一原発2号機 ベント開始             (結果は不明。のちに東京電力の社内事故調査委員会は最終報告書(H24,6月)で、放出経路は不明だが、放出源は2号機と断定。政府事故調査委員会は最終報告書(H24,7月)で2号機からの放射性物質がいつ、どの場所から大量放出が始まったかは特定困難としている。)

06時12分  福島第一原発4号機で爆発音

09時38分  福島第一原発4号機で火災

11時00分頃 菅内閣総理大臣より福島第一原発から半径20㎞~30㎞は屋内退避命令

(「避難計画策定プロジェクトチーム」を市災害対策本部に設置。14日までに作成した「避難計画」を基によりきめ細かく、福島第一原発からの距離ごとに住居者数、福祉施設や病院等の入居者数などを調査。各地区の避難集合場所を選定し、大規模な市内全域の地図を作成。輸送手段、広報、避難者の受け入れ先の検討を行った。)


2011年3月16日  東京の荒川区と足立区で計画停電を実施(初)

2011年3月25日  菅内閣総理大臣が福島第一原発から半径20~30㎞圏内に自主避難指示


長々と綴ってしまったが、以上が福島で起こっていた事故・災害の事実と政府、いわき市の役人がとった事故・災害に対する行動だ。

これだけ見れば、政府もいわき市長達も十分によくやった、と思うかもしれない。

だがもし、ゼネラル・エレクトリック(GE)が売り込んだ、他の原子炉よりも小さく安価な格納容器を採用したマークⅠ型の沸騰水型原子炉が福島第一原発で使われており、1980年代中頃に原子力規制委員会の担当官だったハロルド・デントンが「事故で燃料棒が過熱して溶けた場合に、マークⅠ型原子炉は90%の確率で爆発する」と述べていたとしたら、どうだろうか。

2011年3月12日14時00分 福島第一原発1号機が「メルトダウンの可能性」と発表された時点で、避難命令を出せたのではないだろうか。福島第一原発3号機の炉心が損傷を開始した時点で、避難圏を広げられたのではないだろうか。

ほんの1,2時間の差ではないかと思うかもしれないが、その1,2時間があればもっとスムーズに非難できたかもしれない。水素爆発が起こる前に対応することで、避難する市民の不安が少しでも少ない状態で避難できたかもしれない。介護が必要な方や、乳幼児を連れた方、妊娠されている方を急かさずに済んだかもしれない。避難中に怪我をせずに済んだかもしれない。

事実、ハロルド・デントンは「事故で燃料棒が過熱して溶けた場合に、マークⅠ型原子炉は90%の確率で爆発する」と述べていた。

政府に救われる側だったはずのいわき市長含めるいわき市役人の皆さんは、政府よりも早く迅速な対応をすることで市民だけでなく、他市民までも救ったのだ。

私は、政府の危機管理への意識の薄さ、非常事態への対応の遅さに懸念を抱いて止まない。


また、2011年3月15日00時02分に行われた福島第一原発2号機ベントの報告が、「結果は不明。のちに東京電力の社内事故調査委員会は最終報告書(H24,6月)で、放出経路は不明だが、放出源は2号機と断定。政府事故調査委員会は最終報告書(H24,7月)で2号機からの放射性物質がいつ、どの場所から大量放出が始まったかは特定困難としている」とはどういう事だろうか。                                ベントを行った本人らが放射性物質がいつ、どの場所から大量放出が始まったかを把握できていない?                                                                       私は原子力発電の専門家ではないので、「これは嘘だ。東京電力と政府が、非難を浴びるのを避けるために情報を隠蔽している!」などと言うことはできないが、この報告には不明解部分が多すぎて納得しかねる。

2011年3月17日の中日新聞では、

「ロシアは、福島第一原発で相次ぐ水素爆発や火災で、情報公開など日本の対応に批判を強めている。インタファクス通信によると、ロシア国営原子力企業、「ロスアトム」のロクシン副総裁は、「日本からの情報は不十分で矛盾している」と不満をあらわにした。」とある。            また、                               「香港エンジニア学会原子力部会の陸炳林会長は、「日本の関係当局は外部との意思疎通が不足している」と批判し、積極的な情報公開を求めた。陸会長は「日本当局が事実を隠蔽しているのか、事故への対応に忙しいかは知らないが、今回の事故は日本だけでなく、他国に影響する可能性もある」と述べ、同原発の全体状況を公開するよう要求した。」とある。

(中日新聞さんには引用の許可をいただきました)

東日本大震災への対応が原因で他国から批判を浴び、信頼を多少なりとも失った日本政府。正しい情報を公開しない(できない)政府。この時、不安と恐怖に苛まれた被災者の方々の事を思うと、胸が痛い。

南海トラフ地震が起こったとき、日本政府が同じ過ちを犯さないことを、東日本大震災が起こったときのように国民が協力し合う事を願うばかりだ。


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