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現世至上主義な我々日本人

こんばんは、くまはんです。
暑い上に天気が崩れたりとなんだか踏んだり蹴ったりな毎日ですね。
そんな僕はクーラー風邪を引いた気がします。
脱水症状を起こしてるのかもしれないし、花粉症なのかもしれません。
分かっていることは体調が芳しくないということですね。

ここのところ読んでいる『武士道』。
そこでまた面白い一節があったので紹介しますね。
武士道武士道うるさくてごめんなさいね。笑

人の名声、それは「人自身の不死の部分、それ以外のものは禽獣である」

新渡戸稲造『武士道』p.88

この一節に僕はくらくらしちゃいました。
人を人足らしめるのは名声であり、それ以外はケダモノと何ら変わりがない。
そう言うのです。

そして「名声は人自身の不死の部分」という部分が特に魅力的。
そうか、これが日本と西洋の違いの考え方か、と。

デカルト二元論ってご存知ですかね。
ざっくりと言えば、「人間は”肉体”と”精神”に分けられる」という考えです。
肉体と精神が分けられるからこそ、死が訪れた際には精神は天国に行くという考えが生まれる、ということですね。
つまり西洋的に言わせてみれば、「肉体はやがて朽ちるものの精神こそは不死である」となるのです。
したがって西洋においては善行を積むのは、死後に天国に行くため、だったりします。
飽くまでも現世は死後世界への準備段階なんですよね。

その一方で日本の武士道における考え方はこの西洋的な考えとは対照的なんです。
名声こそが不死の部分。
名声とは言ってしまえば他人からの評価です。
そしてその他人は常に現世にいるもの。
現世における自分の評価こそが不死の部分と言っているのです。
面白くないですか?
善行を積むのは、現世で周りから評価されるため、なんですよ!
そこには死後の世界という発想はない。
ひたすらに現世至上主義とも言えます。

どちらが先かは分かりませんが、死が日常的であった武士の世界。
そこでは死は手段の一つでしかなかった。
本書の中でもこんな一節があります。

水戸の藩主[徳川光圀]は、「戦場のなかに駆け入って討ち死にすることは、たいへん簡単なことで、とるに足らない身分の者にもできる。生きるべき時に生き、死ぬべき時にのみ死ぬことを、本当の勇気というのだ」と言った。

新渡戸稲造『武士道』p.44

だからこそ死ぬべき時ではない死を、「犬死(いぬじに)」と忌避したんですね。
そして名誉ある死に方として「切腹」という文化が生まれたのも頷けます。
どこまで行っても、現世での名誉や名声なんです。

そしてこの武士道の思想は僕ら日本人の根底を流れている気がします。
名声が最も大事な現世至上主義。
体裁を気にする国民であるのはここから来ているんでしょう。

一番最後に一番言いたかったことを。
きっと現世至上主義の日本人は、死後の世界をあまり考えないのかもしれません。
死んだ後の、自分のいない現世を想うことはあっても、死んだ後自分の行く死後の世界には想いを馳せることがあまりない。

「僕が死んだらあの人は悲しむかな。」
きっとこの一文にはそんな意味が隠されてるのかもしれませんね。


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