毎週、神社に行っていたら、開眼した

2021年2月から、毎週神社に行って参拝している。最初は、思いつきだった。お賽銭は、自分の財布から小銭を出して、お賽銭箱に入れていた。

途中から、綺麗なポチ袋に入れて、裏には名前を書いて奉納するようになった。お金がもったいないな、と感じたことは一度もない。

ポチ袋

それを繰り返しているうちに、開眼した。私は中国武術をやっているのだが、それも関係しているかもしれない。

また、アメリカ人と結婚していて、アメリカ社会で働いているから、感じたこともある。

【アメリカ人の願掛けや祈りとは?】

まずお正月の過ごし方。初日の出を拝んだり、神社へお参りに行ったり、おみくじをひくという人はまずいない。アメリカには「お正月」の習慣はない。1月1日は祝日で休みだが、1月2日からは普通に仕事が始まる。

【アメリカ人の願いを叶える方法】
 流れ星に3回願いを掛けるとか、バースディケーキにろうそくを立てて願いをこめて炎を吹き消す…、そのぐらいしかない。

「願って掛ける?」とアメリカ人に聞くと、大半は「NO」だ。

例えば大学入試だったら「合格祈願を紙に書く暇があったら、ノートをひろげて勉強したら?その方が合格の確率は高いはず。」

結婚も「神様に祈るよりネットで調べる方が早いでしょ?」などと、とても現実的なのである。

家族や友達の病気回復の願いは、カードや花を本人宛に送る人が多い。自分の気持ちを直接相手に伝えるのが普通。

【日本人なら一度は経験する「願掛け」】
 そもそも「願を掛ける」とはどういうことなのだろう?

 元来は、逆境を打破して願いの実現に向けた精神的な決意を得ようとする真剣な行為で、願望を実現させるために神仏に誓いを立てる。病気治癒や商売繁盛、縁結びや厄払い、昔は雨乞いや豊作祈願などの願かけもあっただろう。

 病気回復や平和を祈って折鶴はしばしば飾られるし、願いがかなうまでお酒やタバコ、好物を断つ人もいる。お百度詣りとか水ごりなども昔は行なわれていた。神社でおみくじをひいて、その年の運勢を占ったり、傍らに設置してある木々に結びつけ、大学入学や就職、結婚など、願いが叶った時はもう一度神社に行ってお賽銭をあげ、成就に対して神様に感謝する。多くの日本人はそれが普通だと思っている。

【大自然や神に対する謙虚さの現れ】
アメリカ人は全く願を掛けないわけではない。旦那の実家に帰ると、周りは熱心なキリスト教徒で、しょっちゅう教会に連れていかれる。食事の前は、目を瞑って、指を組んで、お祈りをする。また、車で教会の前を通った時にも、お祈りを要求される。宗教に基づいた願掛けも祈りもあるに違いない。これらの「願掛け」は、信者が自分の属する宗教に従い祈る行為である。私はキリスト教ではないから、よく意味を理解していない。私がキリスト様にお祈りをするのことを理解しないうように、彼らも、日本の神社で、小銭を賽銭箱に投げ入れて願をかけたり、おみくじをひく行為は理解できないだろう。

 【日本の神】

外国の神は、人物であることが多いが、日本の神は、自然に由来している。日本は昔、農耕民族であったし、天気で農作物の生産性が人生を大きく左右した。したがって、自然をとても大事にした。日本人の「願掛け」「神に願いを託す」という行為には、人の力以上のもの、大自然や神に委ねる人間の謙虚な気持ちが存在している。

【神社参拝を続けてみて】

神社参拝を続けてみて感じたのは、宇宙や自然は(神)は自分の中にある、ということ。

私は多くの人の悩みを聞いたり、遠隔治療を行っているのだが、人生上手くいかないと嘆いてる人は、往々にして他の人の人生を歩んでいる。

毎日ネットやテレビの情報に振り回され、芸能人や、情報を追い回している。そして、他人のことを自分の情報として吐き出している。そして「人生上手くいかない」と嘆いている。子供のため、夫のため、誰々のためと、他者のために生きている。自分が中心にない人生だから、苦しい。そして、「人生が上手くいかない」と嘆いている。そういう人たちは、往々にして、「宝くじが当たりますように」と運を人任せにしたり、「私の人生が悪いのは社会のせいだ」「会社のせいだ」「親のせいだ」と自分の運の悪さを他者のせいにしている。どう生きるべきかがわかっていないから、周りからの情報でフラフラする。ある女性は、年間365日を占い師に方位をみてもらって、それを見ながら生活している。日々、その方角に向かって旅行をしている。占い師に自分の人生を委ねている。そして「どうして人生が上手くいかないのか」を本気で悩んでいる。知り合いが年収いくら稼げたと聞けば、「あっちのビジネスが良さそうだ」とフラフラそちらに行く。また別の知り合いが「月収いくらだ」と告知すれば「こっちもいいかもしれない」とフラフラそちらに行く。誰かが、いつの日か、私を引っ張り上げてくれるかもしれない・・と淡い想いを抱きながら。

【中国武術を通して】

私は週の半分以上を、中国武術に費やしている。そこでは、自分の気をコントロールして、体の隅々に気を充満させていく。自分の気をコントロールといっても、朝早いレッスンは、体も思考もまだ寝ぼけ眼で、よくわかっていない。そこで、深い呼吸法と瞑想を繰り返す。体を動かして、あらゆるツボを押しながら、細胞一つ一つ、血管・骨・筋肉を「健康かどうか」を確認していく。それは眉毛であったり、歯茎であったり、腕の骨であったりする。そうして、1時間も内観していると、自分のつまりがわかったり、詰まっていた箇所が解けていく様がわかる。

深い呼吸とともに、瞑想をする。「何も考えない」ということを繰り返し行う。ネットの情報や、ゴシップ話は、頭から抜く。自分の心身の不調は自分にしかわからない。それを、病院や医者に放り投げるのではなく、まず自分の体と心を感じることだ。

その気功法と瞑想・神社参拝をセットで行っていたところ、「運命は、自分次第。自分を内観することで、宇宙と繋がれる」ということに気づいた。結局、「運命を神様任せにしない」という結論に至った。自分は宇宙の一部であり、神の一部だ、ということ。

【神は自分の中にある】

神社に行くと社殿の中にはご神体として鏡が祀られている。「神道の本質は鏡にある」とも言われている。

“かがみ(鏡)”から”が(我)”を抜くと”かみ(神)”になる。

これは神社の鏡が「我を抜いて己の姿を見ればそれが神である」ということ表している。

つまり私たち自身が神であるということ。「自分自神」という創造主であるということ。

神社は、ご神鏡に映った自分の姿を映し出すとともに、その人の中にある神を思い出し自覚する場所でもあるのだ。

「自分の中に全てある」「神は己の中にいた」と確信すれば、崇めるのは、お金持ちでも、有名人でも、著名人でもなく、神や宇宙ですらもない。

あがめたてまつるのは、自分だけ。

自分と自分の交流をいかに成していくかに尽きる。



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