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1.5 経済成長の主体とは

第二の批判は、経済成長の主体が何かという点に関するものである。
経済成長の主体は政府であると答える者は資本主義社会において極めて少ないであろう。あくまで経済活動は市場が舞台であり、政府は介入こそすれ、その太宗を担うとまでは決して言えない。
このことは、政府が経済活動に主要プレーヤーであることを否定するものではない。大企業と比較しても政府の規模は圧倒的であり、その決定が経済に与える影響は莫大である。
また、政府及び中央銀行がマクロ経済政策をほぼ独占的に担っているのも事実である。金利・為替にまつわる施策もまた、国全体の経済活動に大きな影響を与えることは明白である。
しかしながら、やはり経済活動の主体は民間が中心である。政府の活動は、確かに一大プレーヤーとして注目に値するものであるが、それ以上のものではない。ましてや、経済成長が十分に達成されないことについての責任を一手に引き受ける必要は全くないのである。
ところが、現実には、国民は経済成長の失敗を政府の責任としてとらえるし、政治の側も、それを当然のことであるかのような顔をして今に至る。
そのような姿勢は、高度成長経済期には非常に受けのいいものであったし、脱軍事化された日本においてはその道しか残されていなかったのかもしれない。そしてそのような物語を国民に提供することも政治の役割であるだろうし、それは一応うまく機能していたのだから、昭和の時代にはそれでよかったのであろう。しかしそれが現在にまで引き継がれ、未だ脱し切れていないのは問題である。
小泉改革のような新自由主義的な政策がとられ、政府はより一層小さくなってきたのにもかかわらず、低成長の責任を政府に押し付ける言説はむしろ増え続けるばかりであり、政治もそれに応えるポーズだけは取り続けているのだ。

私の批判は、この歪さについてである。国家が経済成長を一つの目標とすることについて異論はないが、政府は経済の主体ではないし、すべてを取り仕切ることはできない。むしろその役割は小さくなっているのであり、それにもかかわらず見栄を張り続けることはお互いに不幸である。政治の一つの、そして大きな役割が、何かしらのストーリーを国家に与えるものであるとするならば、それは経済成長では最早ないだろう、ということを主張したいのである。
私が経済成長第一主義と呼ぶ、このような物語から早々に脱却し、新しい物語を語りはじめるべきなのではないか、というのが本論考の提言したいことである。次節からは、その経済成長第一主義への代替として語られる“分配”について検討してみたい。

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