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レビュー②よろけながらも、せおうもの −高橋喜代史展 「言葉は橋をかける」

一人の男が、白い大きな板を背負って、いっぽん道を歩いている。
板には「人はみな、それぞれのカンバンをせおう」の文字。
風が吹くと、男はよろける。わざとらしいほど。それに何度もよろける。横に細長くて大きなそれは、風を真っ向から受ける。だから、バランスを崩してしまう。

これは、展覧会「言葉は橋をかける」で展示されている映像作品、「言葉をせおう」の一場面だ。

高橋氏によると、男がせおっている板は、カンバンを意味する。
そして、カンバンとは役割や立場のこと。そして、せおわされるものでもあり、せおうものでもあるという。

ただ役割や立場にもう少し踏み込むと、それらは属性によって規定されることが多いように思う。属性は、もっと無個性で透明。国籍、性別、年代、生まれた場所…といったようなものだ。

日本だと、役割や立場は、最初に属性が決まった後についてくるものが多数だ。自分で選択できる属性もあるけれど、多くの属性はやめたくてもやめられないもの、自分では選べないことが多い。属性によって、役割や立場を期待される。高橋氏の言葉でいうと、カンバンをせおわされる。

それも踏まえて、だれかのせおっているカンバンに思いを巡らす。

メンタル不調で会社を休職している知人。
彼は、夫であり、父であり、子でもあり、さらに昨年までは営業課長もしていた。
「営業職だし、コロナで大変だったんじゃない」と、私は彼を弁護する。
けれど彼を知る友人は容赦ない。「他の営業もみんな辛いはずだよ。今年、課長から降格になったのが相当こたえたんじゃない」
「課長」のカンバンはなくなっても、「元課長」というカンバンをも彼はせおわされていたのか。

映像の男を見て、よろけるくらいなのであれば、そんなカンバン下ろしてしまえばいいのに、と思っていた。けれど、誰かにせおわされた属性は、下ろすのも難しいのだろうか。

そして、私自身。
私は、おととし、東京での会社員の職を辞めてプラプラしていた。12月の沖縄に滞在していたとき、偶然出会った、伝統工芸の機織りに魅せられてしまった。そして、滞在中、その教室に通っていた。夢中になる私をみて、先生たちが「機織りの担い手を募集しているよ。こっちに引っ越して機織りを習ったら」と声をかけてくれた。

そのとき、パカーンと自分の目の前に道がひらけた気がした。私は、自分の今後は、過去の延長上にある仕事につくだろうと思っていた。たとえば、東京の、それっぽい会社で、パソコンと向き合い、エクセルをせっせと更新するような仕事だ。つまり、過去の属性から、自分の役割を規定し、みずからカンバンをせおっていた。だから、私の人生に、沖縄で機織り職人になるという選択肢があるなんて、これっぽっちも思っていなかった。

誰かにせおわされるカンバンもあるけれど、誰かが取り払ってくれるカンバンもある。自分の立場や役割を自分だけで決められないし、相手によって私に期待することは異なる。自分は「こういう立場です」とひとつに規定したくないし、規定できない気がする。

だから、相手、場所やタイミングによってせおうカンバンを付け替えたい。しょせん、カンバンなのだから交換することや何も背負わないということも、本当は簡単にできるはずだ。

この作品は、当たり前のように使っている言葉をヴィジュアル化することで、日常の中に新たな世界を見せてくれる。私たちが、知らず知らずのうちに言葉に縛られていることを教えてくれた。けれど、作品を通じて、言葉が、ものへ変換され、さらに言葉へと再変換され、言葉の意味が再定義される。なんだか不思議な体験で、私は体が軽くなった。すでに、自分に合うカンバンに付け替えていたのかもしれない。

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(文:企画2期 加藤慶子/写真:本郷新記念札幌彫刻美術館(札幌市芸術文化財団))

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