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小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編= (17) ~最後の打ち手~(1322文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。


1853年12月14日。
幕府は警備を受け持つ諸藩の配置を変更します。
 
三浦半島・房総半島周辺の警備を担当していた、彦根藩・川越藩・会津藩・忍藩・熊本藩・萩(長州)藩・岡山藩・柳川藩・鳥取藩の九藩に、品川・築地の警備を行うよう命じました。

砲台(台場)を建設し、大船の建造・所有を認めるなど、幕府はペリー再来航に備え、対応を進めていきました。

しかし物をつくり、法律を改めただけでは足りません。もっとも重要なのは、「人材」です。
老中首座・阿部正弘あべ まさひろは人材の登用に力をいれました。


部屋済み(無職で親の家に住んでいる)旗本の岩瀬忠震いわせただなりは30歳を過ぎてようやく職を与えられました。

江戸時代、旗本の約半数は仕事がなかったといいます。
幕府から一応は俸禄の支給がある為、ぜいたくはできませんが、飢える心配はありません。
ですが、どんなに才能があっても、幕府から与えられる仕事がありません。何もすることなく、ただ時が過ぎるだけの人生を送らねばなりませんでした。

岩瀬忠震いわせただなりもそんな部屋済みの旗本のひとりです。ですが、そんな彼にもようやく出番が巡ってきたのでした。
 
1849年に32歳でようやく、西丸小姓番士を命じられます。
そして1850年には1年間、山梨県の甲府にある学問所「徽典館(きてんかん)」学頭(主席の教師でしょうか)を命じられました。
 
そして任期を終えて江戸に戻った岩瀬忠震いわせただなりは、昌平坂学問所教授を仰せつかります。
職があるだけありがたい、とはいうもののこのまま昌平坂学問所教授として年を重ねていくのかと思うと、岩瀬忠震いわせただなりは、少しだけ侘しい気持ちにもなりました。
 
江戸にアメリカの黒船がやってきたかと思うと去って行き、そして長崎にはロシアの黒船がやってきます。
世の中が騒然としてきていました。
 
1853年11月8日。
岩瀬忠震いわせただなり阿部正弘あべ まさひろによって見いだされ、徒頭(かちがしら:目付の配下)に任命されます。
 
同日、岩瀬忠震いわせただなりより2歳年上の永井尚志ながい なおゆきも、同様に阿部正弘あべ まさひろによって、徒頭から目付へと抜擢されています。
 
こうしてペリー再来航に備え、打てる手を打った幕府は、あとはその時がくるのをただ待つのみでした。

ひとつ忘れていました。
1853年11月23日。
この日、第12代将軍・徳川家慶の死去により、徳川家祥が徳川家定と名を改め、第13代将軍となりました。


1854年2月8日の朝9時頃。
浦賀奉行から幕府に連絡が入ります。

ー伊豆沖に異国船七隻ほどをみたと漁師からの報あり

「直ちに関係役人を登城させよ」
浦賀奉行からの報告をうけた老中首座・阿部正弘あべ まさひろは命じます。

ペリーが再来航し、幕府は正念場を迎えたのでした。


■参考資料
『岩瀬忠震:五州何ぞ遠しと謂わん』
小野寺 龍太(著)

『永井尚志:皇国のため徳川家のため』
高村 直助 (著)

『幕末外交と開国』
加藤 祐三 (著)

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