西暦で見た幕末・維新(14)~人材登用~
【■はじめに】
歴史に対する見解は諸説あり、異論・反論もあるかと思います。
これはボクが読んだ書籍等から、そうだったのかもと思ったものです。
ですので、寛大な心で読んでいただければ嬉しいです。
また年代・人名・理解等の誤り等のご指摘や、資料のご紹介をいただければ幸いです。
では、始めさせていただきます。
老中首座・阿部正弘は、ペリーが持ってきたアメリカ合衆国フィルモア大統領の親書(英文)のオランダ語訳版・漢語訳版を、日本語に訳した物を、諸大名から町民に至るまで情報公開し、広く意見を求めました。
その結果、提出された意見書は800通あったとされています。
(記録に残るものは719通とする説もあり)
加藤祐三氏はその意見を以下のように大きく三つ分けています。
第一の意見である現状維持、すなわち鎖国政策を維持するというのは、わかるのですが、第二の消極的開国論、第三の積極的開国論の違いは何でしょうか。
加藤祐三氏は以下のように分けています。
積極的開国論者ですが、加藤祐三氏によると、彦根の井伊直弼、小普請組(幕府直参の旗本・御家人の、家禄3000石以下で無役の者)の勝麟太郎(勝海舟)とともに、韮山代官の江川英龍や、江川英龍配下の手附(てつけ)の高島秋帆などがいたそうです。
ただし、数でいえば圧倒的に第一の鎖国政策を維持が多く、次いで第二の消極的開国、第三の積極的開国はごく一部にとどまっていたようです。
まだまだ多くの大名や旗本・御家人はじめ、自分たちを取り巻く世界が大きく変わり始めていることに気づいている人たちは一握りでしかなかったのでした。まだこの時期の日本における支配階級の人たちの意識はそのようなものでしかありませんでした。
老中首座・阿部正弘はペリーの再来航に備え、広く人材の登用を始めます。
アメリカより帰国した、ジョン万次郎こと、中浜万次郎を土佐より呼び寄せ、江川英龍の江戸屋敷に住まわせます。
また、上記にも名前が出ていますが、無実の罪で投獄されていた天才砲術家の高島秋帆を11年ぶりに出獄させます。
他にも永井尚志、岩瀬忠震など、この後、日本開国の鍵となる人材の多くは、この時期に老中首座・阿部正弘によって、集められたと言えます。
■引用・参考資料