【三寸の舌の有らん限り】[09]-児玉源太郎02・明石元二郎01-(1750文字)

  司馬遼太郎氏の著作『坂の上の雲』において、日露戦争の陸戦を描いたくだりでは、主人公と思うほどフォーカスが当てられ描かれている児玉源太郎だが、彼は長州藩の出身ーではない。
 
 児玉源太郎は長州藩の支藩、徳山藩の藩士 児玉半九郎忠碩の長男として1852年(嘉永5年)に生まれた。
 17歳の時に戊辰戦争で初陣を飾り、五稜郭の闘いを経て、西南戦争では参謀副長として谷干城司令長官の元、熊本城に籠城し薩軍を退けている。

 1885年(明治18年)に参謀本部 管東局長に抜擢される。
 当時、山県有朋が参謀本部長であることから、山県有朋がその才を認めて抜擢したものと思われる。
 同じ1885年(明治18年)に、児玉源太郎は日本政府がドイツから招いた軍人メッケルと出会っている。
 メッケルは児玉源太郎に自らの知識を惜しむことなく教授したという。


 児玉源太郎が参謀本部次長に就任した翌年の1904年(明治37年)1月12日ー。
 児玉源太郎は、明石元二郎ペテルブルク日本公使館付陸軍武官に対し、外務省を通じて電報を打診している。その内容は以下の通りである。

 ペテルブルク・モスクワ・オデッサというロシアの主要都市に外国人(宏ア人)の情報提供者を二名ずつ配置せよ。
 二つの情報を比較することによって、より客観的に事実を見極めることができるからだ。
 それゆえ、適任者を雇う場合、お互いに他の一名がだれであるかわからないようにすることが肝心だ

「明石工作: 謀略の日露戦争」  著:稲葉 千晴より

 明石元二郎は児玉源太郎の命を受けて動こうとするものの、武官の外出時は、ロシアの秘密警察が警備と称してぴったりとつきまとう。
 そのため、ロシア主要都市内に情報網を作り上げることが困難であった。
 
 明石元二郎が苦心している様子を見ていた栗野慎一郎駐ロシア公使は、小村寿太郎外務大臣に次のようなことを意見具申をしている。

 参謀本部の考えは理解できるが、現在の明石にとってロシアでの諜報網構築は困難極まりない。
 そこで、国交断絶後は駐ロシア日本公使館の一部をストックホルムに移して、対ロシア情報を収集すべきだ。
 スウェーデン=ノルウェー連合王国は、ヨーロッパではイギリスを除いてもっとも親日的であり、日本にさまざまな便宜を供与してくれるだろう。
 参謀本部の目にかなうスパイを見つけることができるはずだ。

「明石工作: 謀略の日露戦争」  著:稲葉 千晴より

 イギリスの林董公使からも同様の意見が出されたことから、外務省は参謀本部に明石元二郎の任地変更を要請する。
 
 また明石元二郎本人からもスウェーデンならばスパイを雇うことが可能との意見もあり、児玉源太郎は明石元二郎をスウェーデンの首都ストックホルムに赴任させたのだった。

 明石はストックホルムに到着すると、新たに日本公使館が開設されるにともない、彼は公使館付陸軍武官と名乗らなければならなかった。
 パーティへの出席など武官の職務をこなさなければならず、ヨーロッパを縦横に駆け巡り、対ロシア工作をすすめる上で支障が生じた。

 そこで、駐露公使館付武官残務取扱となることを参謀本部に願い出て、スウェーデンでの職務を離れ、1904年6月からは諜報・謀略工作に心血を注ぐことになる。
 以後、ストックホルムには、ベルリンから来た長尾常吉武官補佐官が常駐して、明石の連絡係を務めた。

「明石工作: 謀略の日露戦争」  著:稲葉 千晴より

(続く)


■引用・参考資料■
●「金子堅太郎: 槍を立てて登城する人物になる」 著:松村 正義
●「日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究」    著:松村 正義
●「日露戦争・日米外交秘録」           著:金子 堅太郎
●「日露戦争 起源と開戦 下」          著:和田 春樹
●「世界史の中の日露戦争」            著:山田 朗
●「新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説」  著:長南 政義
●「児玉源太郎」                 著:長南 政義
●「小村寿太郎とその時代」            著:岡崎 久彦
●「明石工作: 謀略の日露戦争」         著:稲葉 千晴
●「ベルツの日記」                編:トク・ベルツ


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