小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(8)~確執その1~(2939文字)
アメリカ大統領の国書を携えて来航してきたペリーが、「来年春季に返答をもらいに来る」と言い残し、1853年7月17日に江戸湾から去った後ー。
ひとつの紛糾が江戸幕府中枢の中で起きました。
1853年7月21日、水戸藩前藩主、徳川 斉昭を、この国難を乗り越えるためにも、海防参与として登用したいという要望が、老中首座阿部正弘から出されたのでした。
しかしその提案は満場一致で受け入れられるというものではありませんでした。
なぜなら、徳川 斉昭は、第12代将軍徳川 家慶より徳川御三家の水戸藩藩主でありながら、謹慎処分を受けたことのある人物だからです。
なぜ徳川御三家のひとつである水戸藩の藩主徳川 斉昭は、将軍家より謹慎処分を命じられたのでしょうか。
その遠因は、ペリー来航からさかのぼること30年前の1823年に起きた『大津浜事件』にあるといえるのかも知れません。
1823年、英国の捕鯨船数隻が水戸藩の大津浜に姿を現し、12名の英国人船員が上陸するという事件がありました。
上陸した12名の英国人船員はすぐさま捕らえられ、水戸藩藩長と幕府に報告がなされました。
水戸藩はただちに130名もの人員を派遣し、取り調べを水戸藩士の会沢 正志斎らに命じます。
果たして何語で取り調べが行われたかはわかりませんが、もっぱら筆談と世界地図を広げての身振り手振りでの取り調べが行われました。
1782年生まれの会沢 正志斎は当時41歳くらいでしょうか。
尊王攘夷という思想を日本刀のように研ぎ澄ましたかのような後期水戸学のキーマンともいえる藤田 幽谷の私塾に10歳の頃から入門し薫陶を受けた人物です。(尚「尊王攘夷」という言葉は藤田 東湖の造語という説があります)
ちなみに藤田 幽谷の息子が、徳川 斉昭の懐刀と称された藤田 東湖です。
藤田 幽谷は、そもそもが武士ではなく、親は古着の商いを営んでしました。が幼少の頃から学問に優れ、18歳にして町民出身でありながら、下級とはいえ士籍を与えられるという異例の抜擢を受け、水戸藩が藩の事業をして取り組んでいた『大日本史』の編纂に関わることとなります。
ここまではよかったのですがー。
「水戸藩が行っている私的な史書に『大日本史』の名をつけるのであれば、朝廷に許可を得るべきであろう。それをせずに『大日本史』と称するは朝廷をないがしろにすることであり、この事業を始めた水戸光圀公の意志にもそぐわないものである」といった意見書を出します。
もともと町民の出の、まだ24歳程度の若者が、藩をあげての事業に物を申しすのですから、怖いもの知らずというか、なんというか。
もちろん、藤田 幽谷は、一時期、『大日本史』の編纂から外されることになります・・・というのは余談でしかありません。
さて、本題に戻って。
英国人船員12名を取り調べた会沢 正志斎らは、彼らが英国から来た捕鯨船の船員であることを理解します。
しかしー。それは口実であり、その目的は捕鯨ではなく、領土的野心であろうと、会沢 正志斎らは判断します。
もちろん明確な根拠はなく、その挙動を見ての主観的判断ですが。
しかし水戸藩にはかれらを処罰する権限はなく、後にやって来た幕府の役人によって、上陸した英国人12名は解放され、食料を与えられた英国捕鯨船は去って行きました。
この沙汰の一部始終を知った藤田 幽谷は、幕府も水戸藩も対応が手ぬるいと切歯扼腕して嘆いたといいます。
(翌月には、薩摩藩の支配下にある宝島で、英国の捕鯨船船員が牛を略奪するという事件が起き、ことを重く見た江戸幕府はようやく翌年に異国船打ち払い令を出しています)
1826年に藤田 幽谷は、会沢 正志斎と会談をしていたときに、急な病で死去します。
家督をついだ藤田 東湖は、水戸藩主継嗣にあたっては 斉昭派に属し、斉昭が水戸藩藩主となった後、徳川 斉昭から藩政改革などに重用されることとなります。
徳川 斉昭は、『大津浜事件』などから海防の重要性を認識していたのか、大砲の鋳造を積極的に行います。
しかしなかなかこれが成功しません。大砲の鋳造に必要な銅の買い入れをしようにも資金が底をつきます。
そこで、寺の鐘、仏像、仏具などを没収し鋳つぶして、大砲を製造することとなりました。
藤田 東湖も徳川 斉昭も日本古来の神道に重きをおいており、仏教は外来宗教とみなしていたこともあり、その決断はある意味一石二鳥ともいえるものだったのでしょう。
しかし、これが幕府の宗教政策の根幹をなす寺請制度(てらうけせいど)を脅かすものと判断され、徳川 斉昭は、第12代将軍徳川 家慶から、1844年に隠居謹慎を命じられます。
尚、公式には蟄居の理由としては、以下のものが挙げられています。
藤田 東湖、会沢 正志斎らの藩政改革派も蟄居・幽閉の処分が下されました。
もっとも徳川 斉昭の蟄居は、同年中に解かれています。
老中首座阿部正弘の提案に対し、老中の久世広周は、「大賛成でござる」と賛同し、同じく老中の牧野忠雅、松平乗全も同意します。
「お待ちくだされ」
5名いた老中のうちただ一人、松平忠固(当時は松平忠優と名乗っいてましたが松平忠固で統一します)が待ったをかけます。
「賛同いたしかねます」
「なんと申された?」
思いもしない松平忠固の反対に、思わず老中首座阿部正弘は聞き返します。
「反対と申しました。斉昭公は気難しいお人にて、政務に参与されれば、独断で物事をお決めになることがあると思われます。海防の意見を伺いたいのであれば、その時々にこちらからご意見を伺いに参れば済むことでございましょう」
「なるほど、それも一理ありますかな」
と老中の牧野忠雅、松平乗全はすぐさま意見を変えます。
形勢不利とみた老中首座阿部正弘は一旦この話を打ち切りました。しかし、それであきらめたわけではありません。
次の日もまた、同じ提案をするのでした。
■参考資料
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