【三寸の舌の有らん限り】[17]-高橋是清01-(2378文字)
時間軸は日露戦争開戦の前年、明治36年(1903年)10月20日に遡る。
前日の19日は、日本銀行総裁である山本達雄の、5年の総裁任期満了となっており、新たな後任人事の話もなかったことから、日本銀行の重役たちは皆、引き続き山本達雄が日銀総裁を務めるものと考えていた。
日本銀行副総裁である、高橋是清もそのひとりであった。
日本銀行の重役たちにとっては、青天の霹靂とはまさにこのことであったに違いない。
10月20日、日本銀行本店に姿を現した、大蔵省理財局長の松尾臣善が、『私が新しい日銀総裁である』と、辞令を見せながら皆に宣言したのだ。
誰もが啞然として驚く中、曽禰大蔵大臣から電話で呼ばれた高橋是清は、急ぎ大蔵省に赴いた。
「山本日本銀行総裁の任期満了に伴い、大蔵省理財局長の松尾を新たな日本銀行総裁とする」
曽禰大蔵大臣は淡々と言った後、
「新総裁に不服の者は日本銀行をやめてもらいたい。日本銀行に留まる者は新総裁を助けて貰いたい」そう言った。
それ以上の発言はない。言うべきことは行ったということであろうか。
高橋是清は、何も言わず、一旦その場を引き下がった。
山本日本銀行総裁は、自らの任期満了について、事前に伊藤博文に相談していた。
相談を受けた伊藤博文は、桂太郎首相に『日本銀行総裁は更迭、との噂があるというが、本当か?』と尋ね、桂太郎から『いや、自分にはそのような考えは、少しもない』との返事をもらっている。
これを知った山本日本銀行総裁は、引き続き自分が日本銀行総裁を続けるものだと思っていたのだった。
だとすれば、話が違うではないか。
高橋是清は、桂太郎首相の元に赴いた。
「今回の日銀総裁更迭の手続きは、いかにも穏当を欠いております。われわれが使用人に暇を出す際にも、少なくとも、一か月前には当人に予告し、覚悟をさせておきます」
しかるに、日本銀行総裁の任期当日まで、まったく何の話もなく、いきなり辞めさせるとはー。
「一体、山本総裁に、このような処置をされる過失があったのでしょうか。自分は副総裁として、一緒に仕事をしてきたが、功績こそあれ、過失はなかったと思います」
桂太郎首相に向って、高橋是清は、尚も続ける。
「あなたは、伊藤侯に、日本銀行総裁更迭の考えなしと言われたと聞いています。日本銀行総裁の立場をそのように軽く取り扱われては、日本銀行の権威を失墜し、また外国からの信用も失いかねません。日本銀行はイギリス、ドイツの中央銀行と同様に重さをもたさねばならぬと思います。今度のことは、日本国のためにも、黙って見過ごすことができないため、こうしてうったえに参りました」
「日銀総裁更迭の考えなしと、確かに伊藤侯に言った」
桂太郎首相は答えた。
「しかし、曽禰大蔵大臣が、山本日本銀行総裁とでは、大蔵大臣の任務を尽くすことができないというのだ」
曽禰大蔵大臣と山本日本銀行総裁は、性格的にウマが合わないことは、高橋是清も感じていた。
しかし、そのような感情的な理由で、日本銀行総裁を更迭するなどとは。
「今、露国との間で重大なる談判を行っている。万一の場合を考えれば、日本銀行総裁の更迭やむなし、と思ったまでだ」
桂太郎首相の言葉に、高橋是清は怪訝な表情を浮かべた。
『万一の場合』とは何か。それは日露談判の決裂による開戦であろう。
日本はロシアに対して、最悪、決裂による開戦も覚悟の上で、交渉事を進めていることを、高橋是清は、この時に初めて知ったのだった。
明治36年(1903年)11月10日。
高橋是清は、松尾日本銀行総裁に呼ばれた。
松尾日本銀行総裁は、高橋是清に、「ごく内密のこととして聞いて欲しい」として、言った。
「今朝、曽禰大蔵大臣に呼ばれたが、日露談判の経過が、はなはだ面白くないそうだ。決裂するかも知れぬ」
決裂の先にあるものの最悪のケースは、日露開戦であろう。
「万一、日露開戦となれば、日本銀行としては、軍費の調達に全力を注がねばならぬ。国内の支払いは、紙幣の増発によって対応するとしても、軍器軍需品などは、外国から購入せねばならぬものが多くある。これに対しては正貨をもって支払わねばならぬ。このことについて、今日より十分に考慮画策しておいて貰いたい」
戦争をするには、『金』が必要である。
『金』とは、当然のことながら日本円ではなく、金(ゴールド)、またはイギリスポンドである。
その確保のための算段を、今からしておけー。
松尾日本銀行総裁は、高橋是清に、そう言ったことになる。
(続く)
■引用・参考資料■
●「金子堅太郎: 槍を立てて登城する人物になる」 著:松村 正義
●「日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究」 著:松村 正義
●「日露戦争・日米外交秘録」 著:金子 堅太郎
●「日露戦争 起源と開戦 下」 著:和田 春樹
●「日清・日露戦争における政策と戦略」 著:平野龍二
●「世界史の中の日露戦争」 著:山田 朗
●「新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説」 著:長南 政義
●「児玉源太郎」 著:長南 政義
●「小村寿太郎とその時代」 著:岡崎 久彦
●「高橋是清自伝(下)」 著:高橋 是清
●「明石工作: 謀略の日露戦争」 著:稲葉 千晴
●「ベルツの日記」 編:トク・ベルツ