【三寸の舌の有らん限り】[04]-国交断絶-(1777文字)

金子堅太郎が、伊藤博文の説得を受けてアメリカ行きを承諾したと同じ日、1904年(明治37年)2月6日の午前9時より、連合艦隊(第一艦隊・第二艦隊で編成)が佐世保軍港から出撃した。
午前9時に連合艦隊司令長官・東郷平八郎が率いる第三戦隊が出撃し、午前11時に第二戦隊が、正午に第一戦隊が続き、最後の第四戦隊が佐世保軍港を出たのは午後2時であった。

海軍大臣・山本権兵衛からの命令、『聯合艦隊司令長官は、まず黄海方面にあるロシア艦隊を撃破すべし』に基づき、連合艦隊はロシア太平洋艦隊の主力(旅順艦隊と呼ばれる)がいる旅順を目指した。
尚、第四戦隊は陸軍の臨時派遣隊護衛のため、臨時派遣隊らとともに仁川に向った。

また海軍大臣・山本権兵衛からの命令、『第三艦隊司令長官は 速やかに 鎮海湾を占領し、まず朝鮮海峡を警戒すべし』に基づいて、午前6時30分に第三艦隊・第七戦隊は、鎮海湾占領のために対馬の竹敷港を出撃する。
(尚、『露国船舶アラバ捕獲引致』せよとの特命を受けた海防艦「済遠」は別行動をとるため、午前5時に出撃している)

午後12時30分、第三艦隊・第七戦隊の戦艦「扶桑」・砲艦「平遠」は釜山港外に到着し、釜山港に停泊していた砲艦「筑紫」と合流する。
釜山港に停泊しているロシア商船「ムクデン」の捕獲を、第三艦隊・第七戦隊の司令官、細谷少将は命令し、午後1時30分に「平遠」が実行した。
「平遠」は拿捕したロシア商船「ムクデン」を引き連れ、竹敷港へと戻った。
午後4時30分、「扶桑」と「筑紫」は鎮海湾へと向かった。

尚、二日後にロシア商船が拿捕されたことを知った釜山駐在ロシア領事が、中立国の領海内での拿捕は不当であると抗議をするが、日本側は日露外交関係が断絶した今ロシア領事と交渉する立場にないと抗議文を突き返している。

午後4時、外務大臣・小村寿太郎こむら じゅたろうは、外務省に呼びつけたロシア・ローゼン公使に対し、外交関係断絶を通告した。

駐ロシア公使・栗野 慎一郎くりの しんいちろうは直ちにロシアから引き揚げるが、貴下(ローゼン公使)は、船の便がないので数日延長してもよい、と小村寿太郎こむら じゅたろうから告げられたローゼン公使は、公使館に戻ったあと、この日の朝に日本の艦隊が、ロシア海軍攻撃の為に出航したものとみえる、という報告を受けた。
既に日本は開戦の行動を起こしていた。
公使館からの電報発信は日本が認めていないため、日本の艦隊が出撃した情報は、旅順艦隊に送られることはなかった。

ロシアの首都・ペテルブルグの午後4時(日本では午後11時)。
駐ロシア公使・栗野 慎一郎くりの しんいちろうはラムスドルフ外相を訪れ、日露交渉の断絶を通知し、独立行動の権利を主張する通告文と外交関係の断絶、外交代表の引き上げを通知する通告文を直接手渡した。
外交代表の引き上げは国交断絶を意味する。

尚、ロシア皇帝ニコライ二世のこの日の日記には、「夕方、日本との交渉の中止とその公使の退去がなされるとの知らせを受けた」とだけ書かれていたという。

 詳しい日時は不明だが、金子堅太郎は伊藤博文から、詳しいことを協議するようとの指示を受けて、総理大臣・桂太郎の官邸を訪れている。

桂太郎は金子堅太郎に、「君がアメリカに行けば、かの国におけることは君に一任する」と言った上にさらに、「渡米するについては特命全権大使という名前をやってもよい。枢密顧問官に任じてもよい。そのほか、いかなる官職でも希望があれば君にやってもよい」とまで言うのだった。

この当時、金子貫太郎は貴族院議員であるが、それ以外の肩書を持っていなかった。
しかし、金子堅太郎は、桂太郎の大盤振る舞いとも言える申し出を断った。

思いがけない返事に驚く桂太郎に、金子堅太郎はその理由を説明するのだった。

(続く)


■引用・参考資料■
●「金子堅太郎: 槍を立てて登城する人物になる」 著:松村 正義
●「日露戦争と金子堅太郎 広報外交の研究」    著:松村 正義
●「日露戦争・日米外交秘録」           著:金子 堅太郎
●「日露戦争 起源と開戦 下」          著:和田 春樹
●「世界史の中の日露戦争」            著:山田 朗
●「新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説」  著:長南 政義

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